「ルーツを調べるのに、資料調査って何をどうするの?」
そんな疑問をお持ちの方に、私なりの資料調査の仕方になりますが、
書いていきたいと思いますので、少しでもご参考になればと思います。
①系図作成
戸籍を手に入れたら、まずは系図を作成します。
これはエクセルで作るのがおすすめです。足すのも移動させるのも楽です。
私の場合、家系が入り乱れすぎているので、家系ごとに色をつけてわかりやすくしています。
名前だけでなく、誕生日、没日(わかりやすく西暦も)、年齢、続柄、出身地(村や字名)も入れています。
昔の人の場合、名前が読めなかったりするので、わかるものはふりがなもいれています。同様に、親、兄弟、妻などを追記していきます。
わかるものは妻の家族なども入れておくと、又何か見えてくるかも知れません。
あとは、日記やお墓などからわかる人間関係も別で系図を作っていきます。
また後で記載していきたいと思いますが、私の曾祖母はその村に住んでいた人たちの家族構成まで残していましたので、それらも系図におとすことでより関係図が明確になるかと思いました。
もちろん膨大になるので、エクセルのシートで分けていきます。
私の場合は、膨大になりすぎて何かよくわからなくなってきたので、家系ごとに分けて、略系図(兄弟たちを省いたもの)も作成しました。
郷土史などに出てきた人物で、同じ苗字の人のも系図に落としました。
そこからどこかで、ふいとつながらないかなと思っています。
②位牌・墓情報をまとめる
位牌やお墓の情報は、ワードで書いています。
戒名は系図で見てもあまり意味がないので、ここに書いています。
そこで疑問に思ったことを赤字で書いています。
ちなみに戒名 ●●△△◆◆ の●●は道号で、その人の仕事や性格、願などでつけられたもの。△△は戒名で、名前から一文字取ったりします。◆◆は昔は階級で、性別や年齢などになります。男性には大居士、居士、清信士、信士、女性には清大姉、大姉、清信女、信女、子供には嬰子(1歳まで)、孩子、孩女(2~4歳まで)童子、童女(15歳くらいまで)などつけられます。居士や大姉は、特に寺院に貢献した位号で、江戸時代は貴族や武家の家柄にのみ許されており、一般にはつけられない位号だったそうです。
(墓調査による考察)
戒能助次郎の次男吉次郎の養子先(久米郡鷹ノ子村)の関係のお墓は2つあります。
(義父利右衛門)戒名 大円道覚居士 文化12(1815)8・26没
(義母ユ名)戒名:利釖妙覚信女 天明6(1786)・5・17没/過去帳:文化12(1815)8・16没
①名前からの検証
右衛門、左衛門というのは、もともとは役職の「右衛門府」「左衛門府」から来た名前である。江戸時代以前は諱を避ける習慣があった。本名を口にすると霊的人格を支配できると考えられていたため、通称名が使われるようになった。助も次官(すけ)からきている。明治5年に通称と諱の併用は廃止された。
室町時代以降は下級武士でも名乗れて、江戸時代には役職についてなくても、官職への憧れから農民でも名乗るようになる。そのため、名前からは武士だとかは言えない。
②お墓の形状と戒名からの検証
このお墓「笠付型」といい、竿石に笠をつけたものです。”大名墓”とも呼ばれます。
武士がかぶっていた陣笠をかぶっている様子だそうで、江戸時代で戒名に「居士」がついていることからも武家であったことがうかがえる。これは、「祖先は武士であった」「蜂須賀氏の家臣にいた」と聞いていること、本家には刀が伝わっていたことからも裏付けられると考える。ユ名の戒名の「釖」は刀の意味があるのでユ名も武家生まれだったかもしれない。
なお、蜂須賀家臣だったことは、「蜂須賀家臣団家譜資料データベース」
https://www.lib.tokushima-u.ac.jp/dbhachi/hachi.html
で、名字があることを確認しているが、直接のゆかりは不明。
③没日の検証
・ユ名は利右衛門より早く亡くなっている
・墓は利右衛門の名前がメインで、ユ名はサイドに名がある。
つまり、墓は利右衛門が亡くなった時に建てられており、その時に改めて一緒に祀ったときにお寺の方が、この時に亡くなったと思って過去帳に書き留めたのではないか。または命日を近い日にして、お参りしやすいようにしたのかもしれない。もしくは、もともとは違うところにあり移転したときに過去帳に書き留めたということも考えられる。
またユ名の没日は、墓と過去帳で29年も差があるが、他にも、戸籍や過去帳と墓の没年月日が違う人は多々いる。昔のことなので、届出の書き間違い、記載間違い、焼失や災害により作りなおした、あとからお墓を建てた、など、数年違うことはあるかと思われる。
(作左衛門)戒名 智月明有居士 安政6(1859)・正月・26没
(ふみ)戒名 理月妙鏡大姉 嘉永2(1849)・10・4没
この養子先は断絶寸前だったので、吉次郎が利右衛門の養子になり、景浦家の次女と結婚して跡を継ぎました。でも、作左衛門は、利右衛門より44年あとに亡くなっているんですよね。
〈謎①〉作左衛門は、利右衛門の弟か子供だと思うが、この人が後を継がずに、なぜ養子をもらって跡を継がせたのか??
推察① 作左衛門は、利右衛門の妾の子または母違いの弟で、妾または母の地位が低かったのではないか。
推察② ユ名とふみの戒名には、同じ「妙」の字が入っているが、これは女性によく使われる字である。
推察③ ふみは「大姉」で、ユ名が「信女」ということはふみの方が格上。
〈謎②〉吉次郎が生まれたとき、すでに利右衛門は30年前に亡くなっている。それなのに吉次郎は利右衛門の養子となっている。(戸籍より)
推察① 景浦家が財産を受け継いだと聞いているので、財産を継ぐ人がいなかったので一時的に預かっていたと思われる。
推察② 名前を継ぐために養子にしたと思われるが、そもそも亡くなってからでも養子にできるのだろうか?? もしくは、いったん助次郎が養子になっていて、何らかの事情で書き直したのかもしれない。
推察③ 名前や財産を継いでいることから、かなり親しいと思われるが、今のところ3家(養子先、戒能、景浦)の関係はまったくわからない。(養子先も珍しい苗字でこのあたりにもない。)
推察④ 敗北したか逃げてきたかで、苗字を名乗れなくなり戒能に世話になる。そのあとで子孫が名前を継いだ、のかもしれない。
とまぁ、こんないろいろなことが考えられるわけですね。
③ 出生地の郷土史、歴史本などを調べる
市町村の合併で村名などが変わっていたりします。まずはそれを整理して、その土地のことが書かれている郷土史を調べるのが、近道です。
その地域にもよると思いますが、昔の風習や出来事、社寺のことなどが書かれており、そこから人物関係がわかることもあります。
歴史は、その時代に書かかれた一次資料や、後に書かれた二次資料、三次資料があり、後に書かれたものほど戦で勝利したものが都合よく書き直したりしており信憑性は低くなります。
これらは、図書館のデーターベースで見れるところもあります。
私が参考にしたのは下記になります。
愛媛県立図書館(伊予史談会文庫)
祖父の自伝
曽祖父の日記
曾祖父母の手紙など
なお、昔の資料はへんたい仮名で書かれており読めないときもあります。
そこで参考にしたのがこちらです。
【みんなの知識 ちょっと便利帳】変体仮名(へんたいがな)一覧 = 古文書解読の一助に
あと、文章に使用されている漢字で、「言う」「云う」があったりしますが、使い分けているわけではありません。
人の名前ですら漢字がその時によって違うことがあります。新選組の沖田総司でさえ、自分の名前を、沖田総二などと書いています。山南敬助も三南と書いたり、坂本龍馬も良馬と書いたりしています。これは漢字の音だけあっていればよく、書きやすい字を書いていたと思われます。なので、この辺りも間違ってると思わず、気にしないようにしましょう。
資料で気になったものはとりあえずワードに落としていますが、膨大になってしまったので、少しずつ整理しながらまとめなおそうと思っています。