京都御苑は、都御所を中心に、
大小200もの宮家や公家たちの屋敷が建ち並ぶ公家町が形成されていました。
明治2年の東京遷都で御所周辺の公家の邸宅が荒廃したので、
1883年(明治16年)に公園として生まれ変わりました。
現在は国民公園として一般公開されていますが、樹木が多く残されており、
京都市の貴重な緑の空間となっています。
HP:http://www.env.go.jp/garden/kyotogyoen/
(撮影:2008.3.15)
(撮影:2008.3.29)
近衛邸跡
近衛家は、平安の昔から、常に貴族の最高位にあった家柄で、江戸時代末期までに多くの人が摂政や関白になっています。現在は庭園しか残されていませんが、かつては池の西側に大きな屋敷があり、御所炎上の際は仮の皇居にもなりました。池のほとりには、昔から有名な糸桜があったらしく、孝明天皇も1855年(安政2年)御幸の折、次の歌を詠まれています。
「「昔より 名にはきけども 今日見れば むへめかれせぬ 糸さくらかな 」
この近衛邸跡には、今では枝垂れ桜の大木が約30本植わっています。
また桃や梅なども楽しめます。
ちなみに・・「篤姫」に関連する場所でもあります。大河ドラマにもちらっと出てきましたね。
歴史講座を受けまして、そのときのお話をご紹介。
鹿児島の資料で、出典はわかりませんが、薩摩から江戸へ向かう途中で、京都に立ち寄り、
その1週間の滞在記録があります。 それによれば、旧暦で、
9/24(10/26)大阪
9/20(10/31)伏見
10/2(11/2)近衛殿
10/4(11/4)東福寺など京都見学
10/5(11/5)宇治見学
10/6(11/6)伏見発
さらに、「近衛家御用部屋日記」というのがあって、
その資料に書かれているものがあるんだけど、 これはあくまでも写し。
その原本を保管しているところがあって、
通常見せてくれないんだけど、見せてもらえたそうで、その比較をしてくれました。
やはり原本と写しじゃ、間違って書いていたり、飛ばして書いていたりしていて。
写しだと、いつまで近衛殿にいたのかわからなかったんだけど、
原本では、午前10時ごろに来て、夜の10時に帰ったとあります。
伏見に泊まっていたという説があったんだけど、 これだと、伏見まで移動は無理。
近衛殿にも泊まっていないので、京都御苑の近くで泊まったんでしょうね~。
京都御苑に入ってくる時の道、誰が一緒だったか、どこの部屋に通されて、どんなおもてなしを受けたかも詳しく書かれています。
まだこのときは姫の扱いとされておらず、裏門から入ったともあります。
そして、篤姫が近衛邸に向かった道を辿っていきました。
京都御苑の北西の乾御門から入って、今ではトイレのあるあたりに門がまたあり、カーブを描くように歩くと、その前に近衛邸があります。
今も池があるんですが、昔と変わらない姿で残っています。
その池の向こうに、この何年かあと和宮様がお住まいだった桂宮邸があります。こんなところでも妙な縁があったんですねぇ。
こういう、歴史の資料を見ながらの探索は、またおもしろいものがあります。
桂宮邸跡
文久元(1861)年10月20日、14代将軍・家茂に降嫁することになった和宮は2年近く暮らした仮御殿の桂宮邸を出発、中山道を江戸へと下向しました。
現在、この桂宮邸跡地には門のみが残っています。
猿が辻
ちょうど鬼門になっていることから、角を削って、 猿を見張り役に祀っています。
ただ・・夜になるとこの猿が出てきていたづらをするので、金網で閉じ込めたそうです。
橋本邸跡
これが和宮様の実家にあたり、和宮様が江戸にたつときに、わざわざ遠回りしてこの前を通り、両親へ最後の別れの挨拶をしたんだとか。
和宮様は、そのまま南下して、清和院御門から出たそうです。
中山邸跡
幕末期の公家権大納言中山忠能の邸跡で、その娘権典侍慶子を母として1852年(嘉永5年)祐宮(さちのみや:後の明治天皇)が誕生しました。敷地内にはそのうぶ屋が残っています。祐宮はここで4年間養育されたといわれています。敷地内の井戸は、祐宮2歳の夏、干天で井戸が枯れたため、新たに掘られたものといい、その名にちなんで祐井(さちのい)と名づけられたそうです。
西園寺邸跡
西園寺家は琵琶の宗家でもあり、鎌倉時代の公卿西園寺公経が今の金閣寺の地に別荘北山堂を造った際、妙音天あるいわ妙音弁才天といわれる音楽神を祀る妙音堂も建てられたといわれています。
この地へは1769(明和6年)に移されたといわれ、明治になり西園寺家が東京へ移った後は、1878年(明治11年)、以前の神仏混交の作法を改め、地名の白雲村に因み、白雲神社となりました。旧邸内は、西園寺公望が、私塾「立命館」を創設した地でもあります。
九条邸跡
九条家は、御摂家の一つで、平安後期以降多くの人が、超智絵の重要職である摂政や関白につきました。その娘の多くも天皇妃となり、大正天皇の皇后節子(さだこ)もその一人です。
広大だった屋敷も、今では池の畔の茶室の拾翠亭と、九条邸の鎮守だった厳島神社が中島に残るだけです。
蛤御門
京都御所の周囲を固める九つの門の一つ。元は新在家御門という名で呼ばれる開かずの門だったのですが、1788年(天明8年)に京都を襲った天明の大火の時に初めて扉が開かれ、あたかも火に掛けられて口を開く蛤の様だという事から「蛤御門」と呼ばれるようになりました。1864年(元治元年)7月に起こった禁門の変(蛤御門の変)では、ここが最大の激戦地となり、今でも弾痕が残っています。
清水谷家の椋(むく)
この大きなムクの木は、このあたりが清水谷家という公家の屋敷であったことから、「清水谷家の椋」と呼ばれています。樹齢は約300年といわれ、苑内でも数少ないムクの大木です。
1864年(元治元年)の禁門の変の時、長州藩士で遊撃隊(長州尊皇攘夷激派のひとつ)の総督だった来島又兵衛がこの木の付近で討死したとも伝えられています。