六角獄舎は、有罪・無罪の判決がまだくだされていない者を収容するところでした。
1864年7月19日の禁門の変で、京都の市内が大火事になり、その翌日この六角獄舎にまで迫りました。通常、火事が起こると、一旦逃がして、戻ってきたら罪を軽くするというと、8割が戻ってきたそうですが、ここはいつでも死ぬ覚悟の志士が収監されている(東には、一般の罪で収監されている獄舎があったとか)ので、戻ってくるわけがないと踏んで、切り捨てていったそうです。(普通は処刑は別の場所に移しますが、それもしていられないってことで)
殉難勤王志士忠霊塔は、マンションの中にあります。人数を台帳に付けていた人が33名といっていたんだけど、実際数え損なっていたとかで、37名が有力説だそうです。 ちなみに、志士たちを斬首したのは新選組だとする説もありますが、この日、新選組は天王山に長州勢追討のために出張中だったので、この事件に新選組は関わっていないと判断するのが妥当だそうです。結局この火災は堀川で止まり、六角獄舎が焼けることはなかったんですよね・・。
平野国臣殉難の地は、斬首に使われた刀を洗う「首洗井」が、埋め立てられてはいるけど、跡地に現存しているそうです。マンションの中庭にあるとか。ちなみに一般公開されていないようです。
右は、医師山脇東洋が日本で初めて死体解剖を行った場所とした碑です。。