参考:日文研 花洛往古図(内容年代:平安時代末期-鎌倉時代)
平安京の北側に、上御霊社(かみごりょうしゃ)がありました。
これが今の上御霊神社になります。
今回はこのあたりを散策しました。
平安時代の地図を現代の地図に置き換えるとこんな感じになります。
南門。
案内板にはこう書かれています。
「祭神として崇道天皇(早良親王)、吉備真備、橘逸勢をはじめ、十三柱の神霊を祀る。この地には、始め付近住民の氏寺として創建された上出雲寺があったが、平安京遷都に際し、桓武天皇の勅願により王城守護の神として、奈良時代・平安時代の初期に不運のうちに亡くなった八柱の神霊が祀られたといわれ、明治天皇の御願により祭神五社が増祀され、現在に至っている。
平安時代には、天変地異や疫病流行は怨霊のたたりであるとする御霊信仰が盛んで、怨霊をなだめるための御霊会が度々行われ、疫病除けの霊社として名を広めた。朝廷から庶民に至るまで広く信仰を集めたが、特に御所の守護神として皇室の崇敬が厚く、神輿や牛車等、皇室からの寄付品を多数蔵している。
本殿は、享保18年(1733)に下賜された賢所御殿を復元したものといわれている。また境内は「御霊の杜」と呼ばれ、応仁元年(1467)正月18日に畠山政長と義就の合戦が行われ、応仁の乱の発端となった場所としても知られている。」
看板にはこう書かれています。
「文正2年(1467)正月18日朝、この付近すなわち御霊の森(上御霊神社境内)での合戦から「応仁の乱」は始まった。前日の17日深夜、畠山政長は自らの屋敷を焼いて、一族郎党や奈良筒井氏の成身院光宣らと兵約2千を率いてここに布陣した。
翌18日早朝、畠山政長と畠山家の家督を激しく争っていた畠山義就が兵3千余で攻撃をしかけ、18日は終日激しい戦いが続いた。義就方には朝倉孝景、ついで山名持豊(宗全)の命を受けた山名政豊が加勢した。しかし政長方には頼みの細川勝元がこの時点ではまだ動かず、丸一日の合戦の結果、政長方は持ちこたえられず退去した。これが「応仁の乱」の最初の合戦である。
その年の3月、年号は文正から応仁と改まり、細川氏、山名氏の両陣営はそれぞれに見方を集めて戦時体制を固め、五月から上京を中心に将軍足利義政の後継者争いも絡み合う、東西両軍の全面的な戦に入った。この戦は京の都を疲弊させ、室町幕府の権威を失墜させたが、厭戦の風潮の中、細川・山名両氏の間に和睦が成立し、文明7年)1477)、11年間にわたる大乱はようやく収束をみた。なお、宗全の墓は南禅寺の真乗院にある。」
1690年(元禄3年)、上御霊神社を参詣した芭蕉が奉納した句碑。
「半日は神を友にやとし忘」
1956年(昭和31年)10月4日、新村出歌碑。
「千早振神のみめぐみ深くして八十ぢに満つる幸を得にけり」
広辞苑の編者として知られる新村出博士が、80歳の誕生日に参拝の折に、献詠されたものだそうです。
絵馬殿
本殿
祭神:崇道天皇 (早良親王。光仁天皇の皇子)
井上大皇后 (光仁天皇の皇后)
他戸親王 (光仁天皇の皇子)
藤原大夫人 (藤原吉子、桓武天皇皇子伊予親王の母)
橘大夫 (橘逸勢)
文大夫 (文屋宮田麿)
火雷神 (以上六柱の荒魂。)
吉備大臣 (吉備真備)
天皇のゆかりとあって、菊の花びらは16枚です。
清明心の像
福壽稲荷神社
「鎮座年月日は不明。元禄15年(1702)奉納の石灯籠が現存。
安永9年(1780)刊行の都名所図会では、本殿南側に祀られており、弘化2年(1845)7月福壽稲荷大明神御祠、辰巳角築山(現在地)へ奉還と社記にある」と書かれています。
西門
上御霊神社の南門前にある、水田玉雲堂。
創業文明9年(1477)。吉備真備が遣唐使として中国へ行き、持ち帰った「唐板(からいた)」を500年にわたり作り続けています。
原材料は、小麦粉、砂糖、鶏卵だけというシンプルなのに、
ミルクのようなほのかに甘みがあって、優しい味です。
創建不明。桓武天皇は、猿田彦の託宣によって平安遷都を決意されたともいわれ、延暦12年(793)勅願によって社殿を造営されたと伝えられています。永徳3年(1383)、足利将軍義満により造替されました。当時は今よりも広大な境内だったようです。
応仁の乱以後も度々火災に遭い、1793年に現在の地に移されました。
緒方光琳宅蹟。
猿田彦神社の一本北側にあります。
尾形光琳は、「琳派」の始祖であり、江戸時代中期を代表する画家のひとりです。晩年新町二条へ移り住むまで、このあたりに住まれていたようです。