京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

松原通 史跡めぐり(明王院不動寺、祇園床、鉄輪ノ井、命婦稲荷社、夕顔の墳)

 

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案内板によると、

松原通は、平安京造営時には「五条大路」であり、幅八丈(二十四メートル)の大通りでした。

平安時代の中ごろには人口も最も多く重要な通りで会ったと思われます。源氏物語に描かれている五条大路は下町っぽい描写で、源氏と夕顔の出会いが書かれてあります。また松原通りは八坂神社と稲荷大社の境界で北側が八坂神社の氏子、南側が稲荷大社の氏子となっています。

 かつての五条大路は清水寺への参道でもありました。五条の石橋と言われ鴨川の中州には大黒堂がありました。平安時代の末期には、五条橋を渡った六波羅の池に、平家一門の屋敷町が形成され五条大路は戦略的にもますます重要な通りとなりました。牛若丸と弁慶の出会いも実は現在の松原橋なのです。

松原通の名前の由来ですが、室町時代末期、荒廃した五条室町に「玉津島神社歌人藤原俊成の屋敷跡)が建てられていて、その松林が美しく「五条松原通」と呼ばれておりましたが、やがて五条がとれ松原だけの名称となったようです。

松原通は旧五条大路だけあって、多くの行事や名所旧跡が残されています。稲荷祭の神輿巡行は現在も行われており、祇園祭山鉾巡行も昭和三十年まで松原通を通っておりました。有隣学区を東から歩いていきますと、弘法大師ゆかりの松原のお不動さんこと「不動寺」、祇園祭山鉾巡行の一里塚がある「祇園床」、朝顔の墳、夕顔の墳、間之町を北へ行くと、貞門派俳諧の始祖、松永貞徳の屋敷跡「花咲神社」などがあります。」

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ということで、松原通をふらふら散策。

明王院不動寺。

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案内板によると

「青蓮山と号し、真言宗東寺派の寺で俗に「松原不動」という。

持統天皇5年(691)に、道観大徳が開基した法相宗の寺であったが、のち弘法大師が自作の「石仏不動明王」を安置してから現宗に改まったといわれている。平安京造営の時に、桓武天皇は王城鎮護のため平安京の東西南北の四つの磐座(石蔵)に経巻を収めたが、明王院はその四岩倉の一つで、「南岩倉」と称したと伝えられている。

天歴年間(947~957)、鴨川氾濫に遭い、堂舎はことごとく流没し、一時比叡山の苔筵法師によって再興されたこともあったが、応仁の乱で荒廃し、石像も塵芥の中に埋もれてしまった。

天正年間(1573~1592)、豊臣秀吉聚楽第の造営に際し、ここから苔むした本尊不動明王を得て、聚楽第に収めたところ、夜な夜な不思議な光を放ったので、霊験を感じ、旧地に堂舎を建立し、これを再び奉安したという。」

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松原通富小路を西に歩きます。

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祇園床・・え、これ?

通り過ぎては戻り・・めちゃ探しました。

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確かに書いてありますね。

祇園祭の14日、古式一里塚の神事をされます。

こんなところで(失礼ですね^^;)するんですね。

まだ見れていないので、休みが重なったら行きたいです。

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続いて・・堺町松原を南にいったところに、鉄輪ノ井があります。

ここもわかりにくかった!

この細い道を入っていきます。

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ここに来ようと思ったのは、先日の能舞台で見て知ったから。

でも・・正直怖いです。さっさと写真撮って退散しました。

案内板によると

謡曲「鉄輪」は男に捨てられた市井の女が、貴船へ丑の刻参りをして、相手の男とその後妻を祈り殺そうとする話が骨子になっていますが、この井戸は鉄輪の女が住んでいた所のものだといい、一説には身投げをした井戸ともいわれています。このような伝説から「縁切井戸」として井水を汲んで相手に飲ませると、悪縁が切れるなどの俗信がありました。昭和十年には「霊井」となっています。なお、かつては鉄輪で築かれた塚があったということです」

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井戸です。

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命婦稲荷社。

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井戸水の代わりに誰かに飲ませようとか・・するんだろうか。

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堺町松原を北にいったところに、夕顔の墳があります。