続いて八大神社へ。
詩仙堂のすぐ東側にあります。
ここの剣鉾祭りは一度見てみたいですよね。
由緒書きによると
「当社は、永仁二年(1294)三月十五日勧請。祇園八坂神社と御同神に坐し古来より北天王(北の祇園)と称し皇居守護神十二社中の一にして都の東北隅表鬼門に位置し、方除、厄除、縁結び、学業の神として世の信仰厚く、後水尾天皇、霊元天皇、光格天皇、修学院離宮行幸の砌り御立寄り
白銀等御奉納あり
明治6年10月5日 藪里牛頭天王社(永享10年(1438)11月28日勧請)
明治7年3月5日 舞楽寺八大天王社(永享10年(1438)9月1日勧請)
を合祀す。大正13年幣帛供進神社に指定せられる。
因に、剣聖宮本武蔵が、吉岡一族と決斗せし当時の下り松の古木は本殿西に保存してある。」
『都名所図会』(1786)の天王社(一乗寺)には、
「古は、舞楽寺のやしろといふ。八大天王を祭る。末社は諏訪八幡宮なり。此の地の氏神にして例祭は三月五日なり」
『拾遺都名図会』(1787)の舞楽寺天王社には、
「舞楽寺村山腹にあり、一乗寺八大天王と同神なり、土人生土神とす。諸社根元云、舞楽寺社八大天王(西方末社)諏訪八幡、いにしへの此処に山門の末院ありて舞楽寺といふ、殊に桜紅葉多くして遊筵の地とす。薩戒記云、応永卅二年九月舞楽寺一乗寺辺に遊覧す。又二水記云、永正十四年十月将軍一乗寺舞楽寺に遊覧し給ふ」
参考:日文研 花洛往古図(内容年代:平安時代末期-鎌倉時代)
平安時代の頃から、舞楽寺及び下り松があったことがわかります。
では本当に都の東北隅にあたるのか?
赤山禅院も表鬼門に位置するとあり、気になって調べました。
結果はご覧のとおりです。
表鬼門としては赤山禅院だと考えます。
皇居守護神十二社中もどこなのかわかっていません。
八大神社の鬼門説は、後からつけられたものではないでしょうか?
社務所
本殿。
祭神 素戔嗚尊(すさのおのみこと)
稲田姫命(いなだひめのみこと)
八王子命(五王子、三王女)
それぞれの神様については、下記をご参考下さい。
石碑より
武蔵が一乗寺下り松に立って多数の敵にまみえた日のまだ朝も暗いうちに、彼は死を期したこの危地へ来る途中で八大神社の前で足を止めて「
勝たせたまえ。今日こそは武蔵が一生の大事」と彼は社頭をみかけて祈ろうとした。拝殿の鰐口へまで手を触れかけたが、その時彼のどん底からむくむくわいた彼の本質が、その気持ちを一蹴して、鰐口の鈴を振らずに、また祈りもせずに、そのまま下り松の決戦の場所へ駆け向かったという。
武蔵が自分の壁書としていた独行道のうちに、
我れ神仏を尊んで神仏を恃まず
と書いている。その信念はその折りふとひらめいた彼の悟道だったにちがいない。武蔵にこの開悟を与えたことに依って、一乗寺下り松の果し合いはただの意趣喧嘩とは違う一つの意味を持ったものと僕はそう解釈する
吉川栄治「随筆 宮本武蔵」より
下り松の古木が大切に祀られています。
左から日吉大神社、八幡大神社、賢防大神社、諏訪大神・竈大神社、春日大神・新宮大神社、赤山大神・貴布祢大神社、加茂大神・柊大神社
皇大神宮社
鷺森大神社、大将軍社
常盤稲荷
道の途中にあったお地蔵様。
一度通り過ぎながらもやはり気になって撮影。
布袋さんみたいですね。
つづいて野仏庵へ
入り口が狛犬・・ではなく狛羊!
案内板より
「号は陶庵と称す。
この長屋門は、幕末動乱の最中、西園寺公望公が国事に奔走中、新選組に追われ、難を逃れて 隠棲地 丹波須知村の寓居に構えてあったものでこの奥の茶室陶庵席も当時のを遺しています。」
陶庵席
中をちらっとのぞくことができます。
野仏庵は1人貸切でした。
雨月席。もとは南禅寺の西に建っていたとか。
しかも茶室が煎茶席用というのにびっくりでした。
江戸時代中期、文人たちが集まって、煎茶道を完成させたのだそうです。
天井の柱がまた変わっています。
ここからの眺め。
さて戻ろうと思ったら、
ここからの眺めもまたなんともいえませんね。
襖絵は秋成と親しかった松村呉春の作品。
隠れキリシタン 仙台伊達藩領内にあったもので、
1687年の銘が入っている鐘。
階段に面白い模様がありました。
これ・・石臼です!
たまに見かけますが、こんなにたくさんあるのは初めてみました。
幽扉席
このあたりの雰囲気も素敵ですね。
石仏がいっぱいですが、さすがにきりがないので少し見てやめました^^;
野仏庵のすぐ東にあります。
厳しいお顔をしており、その力で諸悪の根源や悩みを焼き払ってくれるそうです。