参考:日文研 花洛往古図(内容年代:平安時代末期-鎌倉時代)
これは、安楽寿院近くにあった、鳥羽離宮周辺のイメージと地図になります。
中央の離れ小島が城南宮です。
城南宮の周囲は大きな池だったのですね。
城南宮の本殿が斜めになっているのも、この島の形に合わせたからなんでしょうね。
平安時代の地図を現代の地図に置き換えるとこんな感じになります。
京都市考古資料館の資料も参考になります。
鳥羽南殿は、鳥羽離宮公園になっています。
こちらは南側にある石碑。
これは、南東の入り口近くにある案内板です。
鳥羽離宮は、応徳3年(1086)に白河天皇が退位後に院政の拠点として造営されました。
公園内の秋の山は、当時の庭園の築山にあたるそうです。
もともと、鳥羽離宮は、南殿、北殿、東殿、田中殿、馬場殿などがありました。
御所に付属する仏殿として、南殿に証金剛院、北殿に勝光明院、東殿に安楽寿院と成菩提院・不動堂があり、田中殿には金剛心院があった。
『平家物語』巻3には、
「秋の山の 春風に 白波瀬に折懸 紫鷲白鷗逍遥す」
という歌があり、当時の鳥羽離宮の環境を表しています。
南から見た秋ノ山。これも鳥羽離宮の遺跡です。
北側の小山のふもとに、鳥羽伏見の戦いの石碑があります。
秋ノ山をあがります。
山の上には、明治45年に建てられた石碑があります。
といったことが漢文で書かれています。
山の北側。
公園の西北角に出口があります。
ここを上がって、右に行きます。
千本通りと城南宮通りとの交わる西北角に石碑があります。
鳥羽伏見戦跡。
案内板より。
「明治元年(1868)年正月3日夕刻、この付近で起こった戦が「鳥羽伏見の戦い」の発端となりました。
「王政復古の大号令」の後、徳川将軍家の領地返納を強行採決した薩摩、長州らの藩に不満を覚えた幕臣、会津、桑名らの藩は正月1日挙兵、大阪から京へ攻め入ろうとし、薩摩、長州の新政府軍がこれを迎え打ちました。
城南宮には、薩摩藩の野津鎮雄らが大砲を備えて布陣し、竹田街道を北上してきた桑名軍と幕府大目付、滝川具挙が小枝橋を渡ろうとするのを、薩摩藩兵が阻止して談判の後、ついに薩摩側から発砲しました。
この一弾があたかも合図となって戦端はひらかれ、鳥羽と伏見の両方面で激戦が展開されました。幕府軍は約2万、新政府軍は約5千の兵力でしたが、新政府軍の大砲、鉄砲などの新式の武器の威力が幕府軍の行く手を阻みました。
また新選組も土方歳三や永倉新八以下の隊士たちが伏見奉行所詰めからこの戦いに加わっています。
しかし新選組らの奮闘もむなしく、幕府軍は正月6日ついに大阪城に向け退陣しました。この一線を皮切りに、約2年に渡る戊辰戦争が始まりました。」
旧小枝橋風景図。
橋長:123m、全幅員:5.3m
案内板によると、
小枝橋は、京都(平安京)への渡り口で、もともとは杭を打った上に板を渡した木の橋でした。その後土橋から、昭和にコンクリートの橋に建て替えられましたが、2002年3月に撤去されました。
明治維新や日本赤十字社の創設の原因を作った戊申戦争(→戊辰戦争の間違いと思われます)の戦端が開かれた場所でもあります。
この右の道が京へ、左の道が城南宮への道になります。