丸太町寺町を北に行くと、新島襄旧邸があります。
こっちは出口。入り口はもう少し北にあります。
その旦那様になります。
ドラマが落ち着いたら行こうと思っていたら・・こんなに日が立ってしまいました。御所の特別公開の時に、合わせて公開されるので、外から見るだけです。
建物は木造の2階建て。外観はコロニアルスタイルを基本としています。
洋風建築ですが、畳敷きや箱階段などの手法も使われています。
応接間
書斎
食堂
茶室
外観。
ちょっと覗き見しているみたいで・・今度は中に入りたいですね^^;
外から。
この後は、京都市歴史資料館へ寄りました。
「内裏図の世界 -京都御所と公家町-」というのをやっていました。
江戸時代のいろいろな内裏の地図から、京都御苑の古い姿を見ることができます。中にはカラフルなのもありました。
鴨沂高校の北側に、法成寺跡の碑があります。
看板によると、
寛仁3年(1019)、出家した藤原道長は、自邸、土御門殿と東京極大路をはさんだ東で、鴨川の西に九体阿弥陀堂の建立を発願し、翌年に落慶供養、以降10年ほどかけて、金堂、薬師堂、釈迦堂、五重塔など壮麗無比な諸堂が出現しました。
平安京外の東一帯に位置することから「北東院」とも呼ばれ、鴨川から臨むその姿は、宇治川から見える平等院のモデルとも言われています。
度重なる火災や地震に遭い、その都度再建されてきましたが、14世紀前半にはかなりすたれ(『徒然草』)、残っていた無量寿院(阿弥陀堂)の炎上をもって消滅してしまいました。
地図を見ても、結構大きいことがわかります。
それよりも何よりもショックだったのが・・
鴨沂高校・・どこいったのー??
ちょっと校舎があるだけで、なくなっていたのでびっくり・・。
高校の頃、合同部活で、時々お邪魔していたんです。
HP見ても書いてないし、気になります。
法成寺跡碑の通りを、少し東に行くと、護浄院があります。
通称を清荒神といいます。
ここも洛陽三十三箇所以来久しぶりです。
案内板によると、
本尊の清三宝大荒神は、1200余年前、光仁天皇の皇子開成親王の作といわれ、摂津の国にあったのを後小松天皇の勅により、僧乗厳が醒ヶ井高辻の地に勧請し、初めて清荒神といわれました。
その後慶長5年(1600)ここに移され、後陽成天皇御自作の如来荒神尊七体を合せ祀って、長日の御祈願を行い、元禄10年護浄院の院号を賜り、今日に至っています。また一般の家庭では、竈の上に祀られ、火の守護神とされています。
無垢の井