京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

わら天神宮(敷地神社)

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原谷苑さんへいくシャトルバスは、ここから出発して、

帰りもこの前につきます。

せっかくなのでこちらもお参りしてきました。

これまでに行ったことあったと思っていたけど・・どうやらなかったみたい。

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案内板によると

祭神木花開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)

「正式名称は敷地神社といい、その起源は、北山の神という山を神格化した存在でした。天長5年(828)の大雨、大地震の際、時の淳和天皇が北山の神に幣帛を奉られた旨が「類聚国史」に記載されており、その創建は平安時代以前と推定されます。

天長8年(831)、この地に氷室が設けられることとなり、加賀国人々が夫役として指定されました。彼らは移住に当たり崇敬していた菅生石部神社(すごういそべじんじゃ)の分霊を勧請し、その御母、木花開耶姫命を御祭神として北山の神とともに祀り、代々崇敬してきました。

応永4年(1397)、足利三大将軍義満による北山第(後の鹿苑寺金閣寺))の造営にあたり、参拝に不便となったことから、両者を合祀して現在地へ遷座、社号を菅生石部神の通称である敷地神社としました。その後は応仁の乱などで一時荒廃しましたが、仮社殿を設けて御神徳を受け継ぎ、弘化4年(1847)年の大補修、昭和10年(1935)の改修を経て現在に至ります。現在へ遷座後、「天神宮」と称していました。また古来より稲わらで編んだ籠に神籤をいれて神様に捧げており、やがて抜け落ちたわらを、安産を願う妊婦さんが持ち帰るようになりました。のちにそのわらを切り取り、安産のお守りとして妊婦さんに授与するようになったのです。そのわらのお守りの珍しさから「わら天神宮」の名称が広まり定着しました」

 

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90度に曲がっているところは、たいてい怨霊が祀られている場所でもあります。

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手水舍

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本殿まで・・またさらに90度が2回・・^^;

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本殿

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よだれかけが絵馬のかわりのようです。

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舞殿

畳をほしていました。

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綾杉明神

「樹齢千数百年に及ぶ神木綾杉の霊を祭るもので、綾杉のあやとは、黒いという意味とも、木目のこととも、葉に綾があるからだとも言われています。十六歌仙のひとり清原元輔の次の和歌が「拾遺和歌集」に撰録されており、平安時代当時すでに著名であったことがわかります。

「生い繁れ平野の原の綾杉よ、

 濃き紫に立ちかさぬべく」

【現代語訳】

赤子よ、綾杉の枝葉が大きく繁るように立派に成長しなさい。濃い紫の袍を着られる、三位の位を得られるように。

(友人源遠古の子の誕生に際し、その子が六位の色である杉の緑から、三位の色濃い紫へと昇進できるように祈った歌)

 

応仁の乱の兵火を免れましたが、明治29年(1896)8月の暴風により惜しくも倒壊し、わずかに地上2mほどの幹を残すのみとなりました。しかしながら当時すでに樹齢千数百年とも言われたことから神木として崇敬するものが多いため、残った幹に素屋根をかけ、「綾杉明神」として祀るようになりました。」

 

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大山衹神社(おおやまつみじんじゃ)

祭神:大山衹神

「大山衹神は、わら天神宮の御祭神、木花開那姫命の父神です。木花開那姫命に一目惚れした天孫瓊瓊杵尊に対し、大山衹神は、木花開那姫命とともにその姉磐長姫命を貢ぎました。しかしに瓊瓊杵尊磐長姫命があまりに醜かったので、大山衹神に返してしまいます。

大山衹神は天子の命が石(磐長姫命)のように恒久であれと契約をして貢いでいましたが、磐長姫命が返されたことで瓊瓊杵尊の子孫である天皇および人間は長寿でなくなったとされています。

瀬戸内海の大三島に鎮座する大山衹神社は、全国の山衹神社、三島神社総本社であり、源氏、平家をはじめ多くの武将が武具を奉納し、武運長久を祈りました。」

 

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八幡神社

祭神応神天皇神功皇后、比売大神

八幡神社は大分の宇佐八幡宮を発祥の地とし、平安初期に男山の地に石清水八幡宮、平安末期に鎌倉に鶴岡八幡宮が勧請され、その後日本全国に勧請されるようになり、その数は約2万5千社にのぼるといわれています。

皇室の崇敬はもとより、源氏の氏神として篤い信仰を集め、石清水八幡宮の御神前で元服した源義家が「八幡太郎」と称したことは有名です。源頼朝が鎌倉に幕府を開くとともに、鶴岡八幡宮を関東総鎮守として御家人の移住に伴い全国に分祀されていきました。当八幡神社は、明治40年(1907)、衣笠氷室町よりこの地に遷座されました。」

 

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六勝神社

祭神倉稲魂命(うかのみたまのみこと)ほか五柱神

 

「六勝神社は、伊勢、石清水、賀茂、松尾、稲荷、春日の六柱神(二十二社、上七社のうち平野以外)をお祀りした神社で、平安京遷都の際、平野神社の地主神として勧請され、当所は六所神社、六請明神社などと称されていました。貞観元年(859)に初めて祭祀を行い、その後西園寺家の鎮守として崇敬されてきました。

西園寺家に伝来した「菅見記」からは、永享・嘉吉年間(1429~1441)に当社で猿楽が催されていたことが窺えます。また江戸時代の文豪近松門左衛門の作品「女殺油地獄」に登場する白稲荷法印の台詞に「胴取の祈りは4356社大明神」(勝負師、博奕打は六社大明神に祈願する」とあるように、古くから必勝、成功、開運および商売繁盛の守護神として崇敬を集めていました。明治6年(1843)、敷地神社境内に遷座される際、社号を「必勝」の意によって六勝神社と改めました。」

 

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六勝神社の前にある石。

京都府神社庁のわら天神宮のホームページにこんな記載があります。

 

「境内の南端に古来より清盛塚と俗に称えられた前方後円墳式の古墳あり、改修の際に壇上の岩石を除くと石棺が現れ、東京の帝室博物館に鑑定依頼をするも、平清盛の時代と相違ありとのこと、岩石は六勝稲荷神社の前に移したものが即ちそれであります。 」

結局石棺は、誰のなんでしょうね。

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参道にあった桜の木