案内板によると(一部略)、
道真は当時、在原業平(平安時代前期六歌仙のひとり)らとともに、この地でしばしば詩歌管弦を楽しんだと伝えられています。
昌泰4年(901)、左大臣の藤原時平は、醍醐天皇に「道真が娘を斉世親王(宇多法皇の息子、醍醐天皇の弟)に嫁がせ、醍醐天皇を失脚させようとしている」と虚偽の報告をします。醍醐天皇はこの讒言を聞き入れ、道真に九州・大宰府への左遷を命じました。
無実の罪により平安京を追われ、道中この地を訪れ、
「我が魂長くこの地にとどまるべし」と
都を思ったことから、長岡天満宮は「見返り天神」とも呼ばれます。
その後、道真は九州に向かいますが、その時にお供したのが乙訓郡開田村(このあたりの旧地名)の中小路宗則らでした。道真は宗則らと別れる際、自身の姿を模した6㎝余りの木造を贈り、名残を惜しみます。
左遷から2年後の延喜3年(903)、道真は配流先の大宰府で亡くなります。これを聞いた宗則らは、道真から贈られた木造を御神体として祀りました。これが長岡天満宮の始まりです」
「開田御茶屋から古今伝授の間へ
慶長5年(1600)、八条宮家(のちに桂宮家と改称)の初代智仁親王は、細川幽斎(藤孝)から、古今和歌集の解釈に関する奥義の伝承、いわゆる古今伝授を京都の自邸で受けました。二代智忠親王は、父の智仁親王が古今伝授を受けた建物を八条宮家の領地があった開田村の開田天満宮(のちの長岡天満宮)を境内に移築します。幽斎の居城勝龍寺城があった長岡の地に移されたこの建物は、以後、「開田御茶屋」とよばれ大切に伝えられてきました。
明治維新を迎え、開田村が桂宮家の領地ではなくなると、明治4年(1871)に開田御茶屋は解体され、ゆかりのある細川家に引き取られます。そして大正元年(1912)、茅葺屋根に変わり、熊本の水前寺成趣園に「古今伝授の間」として再建されました。平成21年(2009)から翌年にかけて行われた古今伝授の間の解体修理では、柱、欄間、花頭窓といった部材や間取りなどが、長岡天満宮時代のものを受け継いでいることも確認されています。」
本殿。あちこち出店やらテントもあって・・避けたくても避けられず。
神紋はやはり梅ですね。
ちょっと色が飛んでしまいましたが、装飾もきれいです。
道真公というとやはり牛ですが、これが一番古いようですね。
筆塚。
神楽殿。
こちらでは未生流の華道展示がありました。
長岡稲荷大明神とあったので、登ってみました。
上には三社。
ちょっと不思議な配置ですね。
一番手前が山神社。
祭神:大山衹神(おおやまつみのかみ)
松尾竜神
菅竜神
一番奥が、稲荷神社
祭神:宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
本殿右側に、
春日神社(左)
経津主命(ふつぬしのみこと)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
比売神(ひめのかみ)
八幡宮社(右)
比売大神(ひめのおおかみ)
息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)