西寺公園内北側に、謙達稲荷神社はあります。
祭神:倉稲魂大神(うがのみたまのおおかみ)
猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)
由緒略記によると
元御鎮座地 京都府葛野郡(かどのぐん)七条村大字梅小路字東頭の地
(元鎮座地より東二四〇米 北三九〇米 元陰陽師土御門邸の東方辺り)」
平安京オーバレイマップ でみると、とてもわかりやすいです。
一町が120mになるので、今の地図ではこのあたりになります。
実際、このあたりの町名は、梅小路頭町となっています。
明治44年(1911)に、梅小路軌道拡張のため、梅小路の地より遷御されました。
「奈良町初期和銅四年元明天皇の御時(711)の御鎮座とされますが、安政4年(1857)に奉納された御神鏡の記録によると、文教伝来(538)の頃(飛鳥時代)の御鎮座ともされ、伏見稲荷大社よりも古く、元稲荷とも伝えられています。平安朝以降は元天文家で陰陽師であった安倍晴明が子孫、安倍土御門家の祭祀にして、平安城及び人民に利益を施し天下泰平・五穀成就を祈願したと伝えられています。(略)
元境内にあった杉の大木には天狗さま(猿田彦大神と考察)が宿っておられ、稚児の成育を守り給うた由伝えられています。
御社殿は近世江戸初期、元和六年(1620)に再築、嘉永三年(1850)に改築、安政四年十一月(1857)に新社造立、明治四十四年(1911)に移築、平成八年十一月(1996)に新社建立しました。末社にも白菊稲荷大神(しらぎくいなりおおかみ)(稲荷山三の峠鎮座と同一神)の他、浄増貴所之塚(じょうぞうきしょのつか)(平安朝比叡山の呪術僧)をお祀りしています。」
参道から90度に曲がったところに本殿があります。
ということは、これも怨霊ということになりますね。
由緒略記
白菊稲荷大神が祀られています。
これは昭和15年(1940)に、神武天皇即位(皇紀)2600年を祝ってつくられたもののようです。
ちなみに
倉稲魂大神(うがのみたまのおおかみ)は、
『古事記』では、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)となっています。
稲荷神社に多く祀られています。
須佐之男尊(すさのおのみこと)が櫛名田比売(くしなだひめ)の次にめとった神大市比売(かむおおいちひめ)との間に生まれた娘で、兄に大年神(おおとしのかみ)がいます。
「伊呂具が餅を的に見たてて弓を射たら、それが白鳥となって飛び去っていった。それを追っていくと白鳥が降り立ったところに稲が生じていた。」
それが稲荷大社の始まりとされています。
稲荷の謎解きがあります。
稲荷は鋳成りであり、もとは鉄を作っていたが、それを朝廷に奪われ稲に変えられてしまった、という説に、とっても納得。
餅が白鳥になって降りたところに稲が生じた、なんていうのよりよほど説得力があると思いませんか?
そして、宇迦は浮か女であり、遊女であった。狐は来つ寝で、これも遊女。杉は朝廷が滅ぼした神のしるしであり、もともとは杉ではなく松を御神木としていたのではないかという記載があります。
詳しくは、本をお読みくださいね。
これを読んで、由緒略記にも杉とありますが、後に書き直されているんじゃないかなと思ってしまいました。
私の持っている『古事記』の本には、宇迦之御魂神のことは省略されているようで載っていなかったのですが・・宇迦の山(出雲大社の東北にある御崎山)というのが出てきます。大国主が須佐之男の命に従って、須佐之男の娘、須勢理毘売(すせりびめ)を正妻に迎え、この地に宮を設け、須佐之男の神宝だった太刀と弓矢で八十神を退けて国づくりをはじめます。
実際は大国主が須佐之男を追いやって、娘も土地も奪ったんじゃないかと思います。そして宮を設けて、遊女を侍らせていたのかもしれませんね。
宇迦之御魂神は、怨霊として祀られてしまうほど、どんな過去があったのでしょうか。須佐之男の娘だったから、遊女として売られたのでしょうか。最終的には須佐之男一族を殺したのかもしれませんね。そうやってすべてを奪ったからこそ、須佐之男一族の怨霊を恐れたのかもしれません。
猿田彦大神(さるたひこおおかみ)は、『古事記』では猿田毘古神(さるたびこのかみ)となっています。
国つ神で、邇邇芸命(ににぎのみこと/天照大御神の孫)が天から降り立つ時に、先導役を名乗り出ます。つまり御先(ミサキ)です。
出雲大社の北に日御崎(ひのみさき)がありますね。
日御崎神社の神の宮には素戔嗚尊、日沈宮に天照大御神が祀られています。
そうそう、謙達稲荷神社の、「謙」はゆずる、へりくだる、卑下するといった意味があり、「達」は、途中でつかえずに行きつくという意味があります。
何やら意味ありげな感じがしてきますね。