八坂神社の南楼門前には、神事用の榊がありました。
15時20分頃には、ロープが張られ、境内の通行禁止となりました。
続いて、神職たちが本殿へはいられました。
綾戸國中神社が到着されました。
久世駒形稚児も到着です。
舞殿の周りを3周します。
お神輿と同じですね。死の儀式・・。
横から見ると、本当に立体感のある駒形なのがよくわかりますね。
馬を下りて、強力(ごうりき)さんに担がれて、本殿へ入っていきました。
長刀鉾のお稚児さんでも境内は馬では入れません。
それだけ格式が高い、ということですよね。
駒形=素戔嗚尊の荒御魂
それを奉持する久世稚児は、神の使いなのでしょう。
・・でも私には、神への生け贄にも見えて仕方がない^^;
先のリンク「綾戸國中神社」内にも書きましたが、
「國中神社は尊の荒御魂なり。八坂祇園社は和御魂なり。依って一体にして二神、二神にして一体で神秘の極みなり」
「訓世の駒形稚児の到着なくば、御神輿は八坂神社から一歩も動かすことならぬ。若しこの駒故なくして御滞りあるときは必ず疫病流り人々大いに悩む」
と古文書に伝えられています。
この駒形稚児が到着するまでは神輿は動かしたらだめだという。
素戔嗚尊の荒魂と和魂をひとつにして、死の儀式を行い、祀り上げて大人しくしてろと脅す。ひとつにしなければ、素戔嗚尊は完全体ではなくこの死の儀式が半端になる・・だから一体で二神、二神で一体なのでしょう。
16時50分頃、駒形稚児が本殿より出てきました。
そして、南楼門より出ていきました。
このあと、中御座神輿の先導を努めます。
八坂神社編『八坂神社』には、
〈「上久世駒形神人」は『八坂神社文書』中の元禄7年(1694)9月12日に上久世駒形神人松井五左衛門が八坂神社に吉田家の許状申請をうけ、祇園会の神事にあたって毛頭疎意不礼などいたさないことを誓った証文を入れているから、元禄以前に登場していたことは明らかで、『京羽二重』(水雲堂孤松子、貞享2年(1685)には
祇園駒の社、下久世村、綾戸大明神と号す。
とあり、『山州名跡志』(釈白慧撰、正徳元年(1711)にも、
毎歳六月祇園会ニ、彼ノ神輿四条ノ旅所ニ還幸ノ時、冠装束ノ男子、木作ノ駒頭テ首ニ繋テ馬ニ乗リ神輿ノ前ヲ行アリ、是スナハチ当所ヨリ勤ム。
とあって、江戸時代には恒例化していた。〉
ちなみに、八坂神社の摂社に悪王子社というのがあります。
これもまた素戔嗚尊の荒魂を祀ります。「悪」とは強力という意味があり、とくに霊験あらたかな神とされています。もともとは東洞院四条下ル元悪王子町にありましたが、天正年中(1573~1592)に、烏丸通万寿寺下ル悪王子町に遷し、慶長元年(1596)四条京極に遷し、明治10年(1877)に今の場所に移築されました。
時代だけみれば、こちらの方が古そうなんですけどね。
やはり「駒形」というのが鍵なのかもしれませんね。