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京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

山崎散策② 離宮八幡宮

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離宮八幡宮は、JR山崎駅と阪急大山崎駅の間にあります。

祭神:応神天王(おうじんてんのう)

   姫三神(田心姫命(たごころひめのみこと/たごりひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)、酒解大神(さけとけおおかみ/または大山衹命(おおやまつみのみこと)

 

案内板によると、

平安時代初めの頃、清和天皇が太陽の我が身に宿る夢を見給うた時の御告げにより、九州の宇佐八幡宮から神霊を奉じて帰郷した僧行敎が山崎津で夜の山に霊光を見た。そこで此地を掘ると岩間に清水が涌出したので国家鎮護のための「石清水」の八幡宮を此処に創建。丁度、嵯峨天皇離宮の地なので、現在は「離宮八幡宮」と号している。幕末の「禁門の変」では、長州藩屯所となった為、兵火で焼失したものの、それ迄は水無瀬川より円明寺に及ぶ広大な神領を有し「西の日光」と云われる程の宏壮優美な社殿を構えていた。鎮座後は対岸の男山にも分祀され、以後はそちらが「石清水八幡宮と称されるようになる。こうした事から毎年4月3日には勅使が先ず当社に詣った後、淀川を舟渡りして男山へと参拝する。これが「日使頭祭(ひのとうさい)の起りである。山崎津が油業の大中心地となり、また港として繁栄した室町時代には、50隻の船が渡御する大祭礼であった。京都賀茂神社の葵花をかざす祭が「北祭」と呼ばれたのに対して、油長者が藤の花をかざす「南祭」と称えられる豪華を極めたものであった。

やはり清和天皇の頃に、当社の神主が「長木」という道具(搾油機)で「荏胡麻(えごま)/青紫蘇に似た植物の種子)を絞って油を採り、神祀りの灯火に用いた、これが始まりで、室町時代ともなれば、宮廷はもとより全国の社寺や一般の人々で、油といえば山崎屋のものを使わない人はなかった。

「職人歌合せ」には、

宵ごとに 都へ出づる 油売り

 ふけてのみ見る 山崎の月

とあるように、当社の神人たちが独占的に油を製造し、これを売り歩いたからである。

山崎は三川合流して大淀川となる地峡として、京都を目指す水陸交通の喉仏に位置する。

そこで南北朝期の昔より、天下取りを望む武将たちは競って此の地を占領した。神領を安堵し油座を手厚く保護することによって神威の御加護を願い、一方では其の戦力にも頼ったのである。そのため天王綸旨をはじめ、将軍義満や家康の書状その他禁制。下知など三百通にも及ぶ重要な古文書が保存されている、昔淀川べりに建てられていた大鳥居の額「離宮八幡」の文字は、「三蹟」と称えられる藤原行成の手になるという。風格絶佳なる其の名筆は拓本として現存している。」

 

石清水といえば、先に石清水八幡宮を思い浮かべるのに、実際はこちらが先で、あちらが分祀したものだったとはびっくりです。

葵祭と比べられて、藤の花をかざった南祭にも衝撃!

50隻の船渡御・・みたいですね~。

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門をくぐると・・いきなり駐車場^^;

右に90度、左に90度曲がったところに、本殿があります。

その手前にあったのが、「かしき石」

大山崎町 指定文化財になっています。

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立札には奈良時代、案内板には平安時代とあります。

どっちだー?

案内板は、文字がかすれて半分くらい読めません。

南側に流れる淀川の川岸に、8世紀半僧正壱演が建立したといわれている相応寺があり、三重塔があったとされ、その心礎だと伝えられているそうです。

紀貫之土佐日記』(935年頃成立)にも書かれています。

2月11日に山崎の地を訪れて、相応寺のほとりに舟を止め、柳がたくさんあったのを見て、

さざれなみ よするあやをば 青柳の 陰のいとして をるかとぞみゆ

といった歌を詠まれています。

って考えると、やはり平安時代? 石自体は奈良時代?ってことかなぁ。

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製油発祥地の石碑

気になっていたのがこちら。

平安時代から、荏胡麻から搾油して油を売り歩いていたんですね。

搾油機が見たかったのですが、春の例祭の時だけだそうです。残念っ。

でもミニチュアが本殿に安置されています。

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油祖像。

寺社の雑役、力仕事をする神人(じにん)です。

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壺・・には見えないし、油を何に入れて売っていたんでしょうね。

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さて、本殿です。右手には河陽宮(かやのみや)故碑 と書かれています。

もともと嵯峨天皇離宮であった河陽宮の跡地に建てられているので、離宮八幡宮といわれるようになりました。

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拝殿。

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右手が石清水。のぞくと今も水がありました。

左手が手水鉢。花崗岩でできたもので、江戸時代に社殿造営の記念として城主が奉献したもの。

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右から、武内社、天照皇太神社、蛭子神社鹿島神社、気比神社

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高天宮神社

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小禅師宮、腰掛天神社

 

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菅原公が九州へと流された折に、西国街道道脇の石に坐して休息し、

君が住む 宿の梢を ゆくくもかくるまでも かへり見しかな

と詠まれました。

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ちなみに西国街道は、この境内を突っ切っていたので、これにもうなずけますね。

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高良社、三社

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一番びっくりするのが、この大きな石群!

多宝塔の礎石なのだそうです。手前の石は確かに柱の跡みたいですね。

それにしてもこんな大きな石・・運ぶのも大変そうです。

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社務所では、荏胡麻油の販売されていました。

右のも御神酒・・と思いきや、御神油です。

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油だけに・・油断大敵!

このセンス、好きですね。

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東門への途中にあるそてつも立派でした。

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東門。

総門と東門は、兵火を免れて残ったもので、大山崎町の特別文化財に指定されています。

 

なかな見どころいっぱいでした。

 

また、離宮八幡宮の由緒書きの栞に、

自玉手祭来(たまてよりまつりきたる)酒解神社のことが記載があります。この神社は天王山山頂近くに鎮座しています。

「幕末までは、天王(天神)八王子社と称していたが、山崎の地主神たる延喜式名神大社平安時代)の酒解神社の呼び名に戻った。「玉手」を地名として河内・大和・山城等の各地よりの奉祭説があり、また八幡宮境内のカシキ岩を「玉砥(たまと)という酒解神の憑り給う岩境と見たてての還祭説もある。本殿は幕末の文政三年建造だが、神輿蔵は鎌倉時代の「板倉造」として国宝の重要文化財に指定されている。」