豊国神社の一帯は、かつては方広寺というお寺がありました。
東側に、大仏殿跡があります。
案内板には、
「天正13年(1585)関白に就任した豊臣秀吉は、翌14年なら東大寺にならって大仏の造立を発願し、東山東福寺の近傍でその工事をはじめます。
ほどなくこの工事は中止されますが、六波羅のこの地に寺地を変更して再開、文禄4(1595)に大仏殿がほぼ完成すると、高さ18mの木製金漆塗の大仏座像が安置されました。ところが翌年の大地震で大仏が大破し、慶長3年(1598)には秀吉もこの世を去ってしまいます。その後、子である秀頼が金銅に変えて大仏の復興を行い、途中鋳造中の大仏から出火して大仏殿もろとも炎上するという困難を乗り越え、慶長17年(1612)に大仏を事実上寛政させました。しかしそのあと鋳造された梵鐘の銘文〈国家安康君臣豊楽〉が徳川家を呪詛するものであるとして徳川家康が異議を唱えたために大阪の陣が起こり、豊臣氏が滅亡してしまいます。その後の徳川政権下でも大仏殿は維持され、寛政10年(1798)に落雷で炎上するまで、「今日の大仏つぁん」として都の人々に親しまれました。
巨大な石塁(国指定)で囲まれた伽藍は、西向きに作られ、規模は南北約260m、東西約210mと推定されます。大仏殿は回廊で囲まれ、西側正面に仁王門、三十三間堂に向かう南側には南門が開いていました。仁王門跡から西へのびる道が正面通りと呼ばれることも、方広寺に由来しています。
なお、方広寺の名称は、東大寺の重要な法会である方広会にちなむといわれています。」
なんと!
京都のわらべ歌の「京の大仏つぁん」は、これだったのか!
京の京の大仏つぁんは、天火で焼けてな
三十三間堂は焼け残った
あらどんどんどん、こらどんどんどん
後ろの正面どなた
っていうような歌詞です。
こちらには発掘調査のことが書かれています。
めちゃくちゃ大きい・・。
と書かれています。
今の方広寺。
本尊は盧舎那仏座像が安置されています。
こちらには大黒天が祀られています。
鐘楼。重要文化財です。
銘まで見ている時間なかった・・。
天井画がまた色彩豊かに描かれていました。
豊国神社。
案内板によると、
「豊臣秀吉を祀る神社で、一般にホウウコクさんの名で人々に親しまれている。
慶長3年(1598)に63歳で亡くなった秀吉の遺体は、遺命により東山の阿弥陀ケ峰の中腹に葬られ、そのふもと(現在の豊国廟太閤坦)には、広壮豪華な廟社が造営された。後陽成天皇より正一位の神階と豊国大明神の神号を賜り、慶長9年(1604)8月の秀吉の7回忌には特に盛大な臨時祭礼がおこなわれた。その時の様子は豊国臨時祭礼図屏風(重要文化財)に詳しく描かれている。
豊臣氏の滅亡後、その廟社は徳川幕府により廃祀されたが、明治13年(1880)、旧方広寺大仏殿跡にあたる当地に社殿が再建され、別格官幣社として復興された。また明治31年(1898)には、荒廃していた廟墓も阿弥陀ケ峰の頂上に再建された。
正面の唐門(国宝)は伏見城の遺構と伝え、二条城から南禅寺の金地院を経て、ここに移築されたもので、西本願寺、大徳寺の唐門とともに国宝三唐門のひとつとされている。
その両脇の石灯籠は秀吉恩顧の大名が寄進したものである。」
手水鉢にまで家紋があります。
注ぎ口まで変わっていますね。
唐門
11時から例大祭。
旧暦の8月18日が豊臣秀吉の命日なので、その神事がありました。
彫刻が見事ですよね。
祭典は、11時~12時。
中は招待された方のみで、一般の人は唐門の外から見ることができます。
雅楽の演奏が始まり、神主さんがお祓いをして、
供物を神殿に捧げ、祝詞をあげられました。
続いて、京都雅楽会が中国の国事基づいた舞楽「蘭陵王」を披露されました。
そして、玉串奉納があり、供物を下げて、式典は終了となりました。
ちなみに、社務所に朝から長蛇の列だったのですが、
この日だけに授与される御朱印目的で、10時半には終了していました。
御朱印にそんなに並ぶとはびっくり・・。
私ももらおうと思っていたけど、それよりも祭典目的だったので、まーいっか。
刀剣の御朱印だけもらいました。
特に刀剣乱舞ファンではなく、単なる刀剣ファンなので、
これだけ見て満足。
ついでに耳塚(鼻塚)にも行ってきました。
「この塚は、16世紀末天下を統一した豊臣秀吉がさらに大陸にも支配の手を伸ばそうとして、朝鮮半島に侵攻したいわゆる文禄・慶長の役(朝鮮史では、壬辰、丁酉の倭乱1592-1598年)にかかる遺跡である。
秀吉輩下の武将は、古来一般の戦功のしるしである首級のかわりに、朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ、塩漬けにして日本へ持ち帰った。それらは秀吉の命によこの地に埋められ、供養の儀が持たれたという。これが伝えられる耳塚(鼻塚)のはじまりである。
耳塚(鼻塚)は、史跡御土居などとともに京都に現存する豊臣秀吉の遺構の一つであり、塚の上に建つ五輪の石塔は、その形状がすでに寛永2年(1643)の古絵図にみとめられ、塚の築成から程ないころの創建と思われる。」
豊国神社も耳塚もいつ以来だろう。秀吉に特に興味もないのですが、久々にちゃんと見ておこうと思って行ってきました。
実はこの日の一番の目的は、②に続きます。