京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

東山散策③ 新日吉(いまひえ)神宮

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ここも行こうと思って行っていなかったので、

近いから寄ってみました。

この鳥居の向こうは・・駐車場です。

右手に行くと、2本に分かれています。

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左手には、山口稲荷社。

江戸時代の末に境内の山口に祀られた稲荷神社で、氏子中の繁昌安泰の守護神として信仰されているとか。

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右手は・・こんな風に曲がっています。

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45度というところでしょうか。

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こんなに見づらい扁額も珍しいような・・。

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楼門の下、右側

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楼門の下、左側

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正面は舞殿。

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左手に何やら不思議な石がありました。

これ午砲(時間を知らせる大砲)の台座ですって。

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こうやってみるとすごくよくわかります。

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本殿。

祭神 

(本殿八座)

後白河天皇大山咋命(おおやまくいのみこと)、妃神賀茂玉依姫命(ひのかみかものたまよりひめのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、田心比売命(たごりひめのみこと)、菊理比売命(くくりひめのみこと)、大山咋命荒御霊、賀茂玉依姫命荒御霊

(相殿二座)

大山咋命祖父神素戔嗚尊(すさのおのみこと)、同父神大年神(おおとしのかみ)

 

案内板によると

「永暦元年(1160)、後白河法皇がその御所法住寺内に比叡山東坂本の日吉山王七社(日吉大社)を勧請したのが当社の始まりである。祭神として後白河天皇の他、皇居守護神山王七柱を祀り、酒造、医薬、縁結びの神として信仰を集めている。

当社は智積院南側に創建されたが、元和元年(1615)、豊国廟社の破毀とともに旧廟前に移り、さらに明治30年(1897)にこの地に移った。

社殿は応仁の兵火で焼け、その後しばしば増改築が行われたが、現在の本殿は、天保6年(1835)の改造で、大きな流造である。

古くから朝廷の崇敬が厚く、上皇の御幸は108度に及んだといわれ、数多くの天王の遺物、宸筆を蔵している。また、寛政10年(1798)に妙法院から境内の樹下社に寄進された、長谷川等伯筆と伝わる豊臣秀吉肖像画保存されている。

なお江戸後期の小沢蘆庵をはじめ、多くの文学者の稿本など近世文学の資料を蘆庵文庫の名で宮司家が保存している。」

 

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階段の両側に御神猿がいます。

「太古に京都、滋賀地方を開発された日吉大神は、先年の皇都の鬼門を御守護になった霊神で、昔から朝野の信仰は真に顕著でした。

この御猿は大神の御使者で、信者の災禍を去るという不思議な働きがあります。常に御幣をささげて邪気を払い、すべての災厄を退けて幸福を授けられます」

 

でも・・なんでこんな檻に閉じ込められているんだろう・・と思ってしまいました。

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大黒様は、本殿にも祀られているそうです。

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ここは90度に曲がっていました。

飛梅天満宮

祭神は菅原道真公、菅公遺愛の飛梅之霊

由緒書きには、

「永暦元年後白河天皇により菅公之御霊天満宮大自在天神と菅公遺愛之飛梅之霊を祀られる。

飛梅之霊は菅公が大宰府下向の際

東風吹かば 匂いをこせよ 梅の花

 主なしとも春を忘るな

を詠まれて別れを惜しまれた旧宅の梅が一夜の中に配所に花を咲かせたという故事による」

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本殿の周りをぐるっと回るとちょうど裏側に御神木がありました。

御神石もありました。

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本殿右手に摂社があります。

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左、豊国神社

これが樹下社(このもとのやしろ)ともいうそうです。

「桃山時代に豊臣秀吉公は、法国事大仏殿を造営し、三十三間堂を含めた広大な境内域になりました。慶長3年(1598)に秀吉公が没し、法国事東の油が峰に墓所(豊国廟社)が設けられましたが、徳川幕府により元和元年(1615)に廃止決定。そのために妙法院門跡と智積院と新日吉社を豊国廟前に移しました。この時、豊国社の御神体は新日吉社神殿にひそかに還しまつられました。天明5年(1785)に改めて境内社として樹下社を造営して豊公の社殿と致しました。「樹下」の神(玉依姫神)の神名を木下性に通わせて豊公の御霊を隠し祀られたといわれています。

明治30年(1897)に豊臣氏ゆかりの旧大名家が豊国廟の復興をはかり、またその威勢をもって新日吉社は南西方向の現在地に移動させられました。新日吉社境内社の豊国社(樹下神社)もその時に現在地に遷座しました」

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右、秋葉神社愛宕神社

 

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ちょうどこの位置から本殿を見ると、ご神猿が見えます。

双眼鏡も置いてあるけど、マイカメラのズームにて・・。

雨も激しくてなかなかうまく撮れなかったけど、がんばった一枚。

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なんとか見えてよかった。

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日吉神社(旧社標)

昭和33年10月に後白河天皇の御神礼を法住寺陵より迎えて合祀。昭和34年10月に現在の「新日吉神宮」と社名変更されました。

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 参考:日文研 花洛往古図(内容年代:平安時代末期-鎌倉時代

確かに、法住寺殿の東側に新日吉社がありました。

 神社で頂いた略記によると、

二条天皇の応保2年(1162)4月晦日に、初めて祭儀が行われ、競馬が奉られました。この時、上皇にお仕えする北面の武士の中から馬長となって美しい装束をつけて参勤するものも多く、たいそう盛儀であったと伝えられています。

高倉天皇の嘉応2年(1169)からは、後白河上皇は長らく中絶していた宮中の儀式”小五月会(こさきのまつり)”を新日吉の社の祭儀として復興されました。この儀は大内裏の武徳殿で行われていた朝廷の大切な年中行事ですから、いつも上皇法皇が神社に臨幸の上で、大臣以下公卿殿上人も多数奉仕して行われました。

神輿が中門に奉安されると、里神楽、獅子舞、田楽、道張、競馬、流鏑馬などが奉納され、御随人や北面の武士もこれに参勤し、後には鎌倉幕府の武士も奉仕してもっとも盛大を極め多くの武技にぁんする物語を後世に伝えました。これらのことは、玉海、山塊記、明月記、葉黄記、吉記、古今著聞集などの諸記にしばしば記録されています。しかし後柏原天皇の文亀年間(1501-1503)を最後に戦国の代にわざわいされて中絶しました。江戸時代になって後西天皇は明暦元年(1655)に祭儀復興を仰せ出され、5月9日に行われましたが、天明元年(1781)以来5月14日に改められました。」

 この内容を見ても・・本当に盛大な祭儀だったんですね~。