厭離庵は普段は非公開ですが、紅葉の時期に公開されます。
このあたりは藤原定家の別邸である小倉山山荘があったとされています。
長く荒廃していたのを冷泉家が修復し、霊元法皇より「厭離庵」の寺号を賜り、安永(1772)より臨済宗天龍寺派となりました。
開山は白隠禅師の高弟霊源禅師です。
明治維新後に再び荒れ、明治43年貴族院議員白木屋社長大村彦太郎が仏堂と庫裡を建立、山岡鉄舟の娘素心尼が住職につき、それ以降は尼寺となりました。
書院
残念ながら時雨亭は非公開でした。
本堂
本尊上宮太子作の如意輪観音、そして、開山霊源禅師、西行法師、家隆郷、貫之郷の木造と定家郷、為家郷、為相郷の位牌を安置。
天井に描かれた飛天。
定家郷御塚
定家塚 五輪の塔
しぐれていたこともあり、人はまばらで落ち着いて見られたのがよかったです。
中院山荘跡(小倉百人一首ゆかりの地)
「鎌倉時代初め、この辺りに、僧蓮生の中院山荘があった。
蓮生は俗名を宇都宮頼綱といい、下野国(現在の栃木県)の豪族で、鎌倉幕府の有力な御家人の一人であった。しかし政争に巻き込まれるのを避けて出家し、実信房蓮生と名乗った。(この途に郎党60余人も同様に出家した)後に上洛し、法然上人、次いで善恵上人証空に師事し、この地に山荘を営んだ。
蓮生は和歌の名手で、近くの小倉山麓に山荘を構えていた藤原定家とも親交があり、彼の娘が定家の子為家に嫁いでいる。
嘉禎元年(1235)5月、定家は蓮生が山荘の障子に張る色紙の執筆を依頼したのに快く応じ、色紙の一枚一枚に天智天皇以来の名歌人の作を一首ずつ書いた。「小倉百人一首」はこの時の選歌に、後世、鳥羽、順徳両天皇の作品を加えるなどの補訂を施して完成したものと言われている」