バスで「牛若」を通り過ぎ、そうだこの辺に義経ゆかりの場所があるんだったと思いだし、西賀茂大将軍神社の帰りに寄ってきました。
ちょうど義経に関連する本を読みまくっていたので、感慨深いものがあります。
大徳寺北側、船岡東通を北に行ったところ(北山通りより一本南側)に、
畑の中に、牛若丸誕生井、胞衣塚があります。
平安京オーバーレイマップを見るとわかりやすいです。
牛若丸誕生井
牛若丸胞衣塚
こちらには、牛若丸産湯井・胞衣塚 とあります。
【由緒】
牛若丸はこの地で平治元年(1159)生誕しました。産湯井・胞衣塚と彫られた石碑には応永2年(1395 室町末期)と年号が銘記され、京都で一番古い石碑と思います。今は畑の中ですが、明治のころまで牛若丸産湯第弁財天女社の小宮で、開運の御利益と崇められていました。この地は山城国(城州)愛宕郡大宮郷洛北紫竹上野村で郡名は鷹峰に愛宕さんの鎮座と山が近いので、瀧や谷水のせせらぎの音の二説ありますが、定かではありません。大宮郷は十カ村に別れ、江戸時代正保年間(370年前)380戸1600人で郷の中心は紫竹村でまさに日本の原風景の寒村でした。今その区域の人口は約3.5万人。
さらにこの地は洛北七野と呼ばれ北から萩野(萩の自生)、紫竹上野(紫竹の竹の自生)、紫野(若菜の自生)の順、三つの野は禁野(しめの)として天皇や朝廷の狩猟、若菜摘みの場であったことから、千年の昔より近年まで多くの山荘が営まれました。
左の道は洛中から若狭まで二十里の道のりの上野街道(丹波道、氷室道)で周山街道開通まで杉坂、真弓、山国、知井を経て、若狭と呼ばれた往来の多い洛北の主要道でした。若狭から鯖が京の都から物資や文化の交流の多い歴史街道です。旧暦6月15日には、御所へ納める氷室の氷が馬の背により運ばれたことはよく知られています。上野の里は大災や疫病鎮めの京の三奇祭の一つ、やすらいまつり(今宮神社)を平安時代から今日まで伝承されています(4月第二日曜日)。付近の光念寺には常盤御前が安産を祈願したとされる常盤腹帯地蔵も祀られています。
平成26年11月 上野新三郎」
と書かれています。
義経は1189年に31歳で自害します。死後200年もあとに建てられた石碑なんですね^^;
光念寺にも行ってみました。常盤腹帯地蔵が見たかったのだけれど・・誰もいなさそうでしたので断念。雰囲気だけ写真に納めました。
源義経産湯井ノ遺址
大正15年10月に建てられた石碑
義経誕生の時にこの井戸水を産湯に汲んだとい傳説あり。
後に大徳寺王室大源庵を建立したが荒廃して竹林となった。大正14年12月に紫竹區劉整理して、井泉ノ原型を失ったので、その由緒を記して後世に伝えようと思う、といったことが書かれています。
この石碑の下の石の下にあったのかなぁ?
ふたばが見えたら、手前を右(西)へ。
こんなところにあるの??と思っていたら右側に見えてきました。
南築山町
階段下に井戸があったのでしょうね。
常盤井と書かれています。
この奥に衣掛塚もあったのですね。さらに北には弁慶腰掛石も!
うっかり見落としてました。