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京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

御香宮神社(こごうのみやじんじゃ)③ 摂社・末社、伏見の戦跡、伏見城跡の残石、伏見義民事蹟、黒田節誕生の地

何度も来てるけど・・本殿の奥って行ったことがなかった!

歴史ツアーとか、十六社巡りとか・・そういうのがほとんどだったので、全体を見ていなかったことに気づき、回ってみることにしました。

本殿西から時計回りです。

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稲荷社(境内図には菊姫と書いてありました)

何も書いていませんが、祭神は、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)でしょうね。

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弁天社

池があり、橋が渡されてその向こうにあります。

ただ、入ることはできず、橋の手前からお参りします。

こちらも何も書いていませんが、祭神は祭神:市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)でしょうね。

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松尾社

もちろん 祭神は、大山衹神(おおやまつみのかみ)

お酒の神とあって、彫刻もユニーク。

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東照宮

祭神は徳川家康

屋根にはしゃちほこが乗っており、本殿も鮮やかな彩色がされていました。

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南を向くと・・折れ曲がった道。右側には先ほどの神社が並んでいます。

これを左に行きます。

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6社

左から、金礼宮那智、熊野社、新宮、天満大神、春日大明神

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豊国社

祭神は、豊臣秀吉

ただ、拝殿正面に掲げられた奉納絵馬に、御香宮猿田社と書かれているんですよね。別ページでも、ここは猿田彦社と書いているところもありました。となると、祭神は猿田彦か・・。

ここの参道も実は手前で折れ曲がっており、徳川家康よりも厳重体制。

しかも古そうな建物。秀吉を恐れて祀っているっていうのとはちょっと違う気がしました。

 

途中まで書いて見てしまったのが、リンク先の夢。

多分、過去最大だったし、合祀されたか、もともとは猿田彦じゃないかなあと思いました。もしくは、秀吉=猿=猿田彦? としてしまったのか・・^^;

んー、そのあたりも夢で教えてくれたらいいのに。

気になる方はどうぞ。

kyotomichi.hatenablog.com

 

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伊勢社

境内図と場所が異なるのが気になります。移動させたのか?

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左から、住吉大明神、八阪社、蛭子社、八幡社

 

ん?これも境内図と異なります。

境内図では住吉、八幡、八阪、ヱビスとなっています。

札が間違ってるのかなぁ?? それとも境内図が間違えてる?

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ちなみに境内図は、京都伏見ロータリークラブ創立25周年記念と書かれています。1973年創立だから、1998年に寄贈されたのかな。

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絵馬堂

宝暦5年(1776)建立

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桃山天満宮

祭神は菅原道真

牛の親子がほのぼのw

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桃山天満宮摂社 左から、老松社、白大夫社、紅梅殿

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厳島

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大杉社

 

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伏見の戦跡

内閣総理大臣 佐藤栄作

慶應3年12月9日、王政復古が渙発せられるや、京洛の内外は物情騒然として朝幕の間に一触即発の険悪な空気が張った。ところが7日の明け方、当社の表門に徳川氏陣営と書いた大きな木札が掲げられた。祠官三木善郷は早速社人を遣わして御所へ注進すると、翌日薩摩藩の吉井孝介が来てこの札を外しここに部隊を置いた。やがて年が明けて慶應4年正月2日徳川慶喜は大軍を率いて大阪より上洛せんとし、その先鋒は翌3日の午後伏見京橋に着いた。そこでこれを阻止せんとする薩摩藩との間に小ぜり合いが起こった。その折しも鳥羽方面から砲聲が聞こえてきたので、これをきっかけに当社の東側と砲兵陣地を布いていた大山弥勒の指揮により御香宮と大手筋を挟んで、目と鼻の先にある伏見奉行所の幕軍対し砲撃を開始した。これに対し土方歳三の率いる新選組は砲撃の火ぶたを切って、応戦し、一方久保田備中守の率いる傳習隊は官軍の前衛部隊を攻撃して奇効を奏し、官軍を墨染まで撃退した。しかし翌4日軍事総裁に任じられた仁和寺宮嘉彰親王は、錦の御旗を翻して陣頭に立たれたので官軍の志気大いに賑わいそのため幕軍は淀に敗退した。一方鳥羽方面の官軍も一時苦戦に陥ったが、錦の御旗に志気を盛り返し、幕軍を淀からさらに橋本に撃退し、ついに幕軍は大阪に敗走した。」

と書かれています。

 

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伏見城跡の残石もたくさん見られます。

 

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竹田街道の車石、車道

この辺りは低湿地帯で、雨が降るとぬかるみに車輪がとられて、スムーズに通れなかったので、通りやすくするために車石を二列敷き並べたのだそうです。

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大手筋木鳥居旧基礎石

江戸時代・萬治2年(1659)紀州徳川頼信は境内入り口の大手筋に石鳥居を奉納した。寛文年間の大地震により倒壊、その後数度の建て替えを経て、明和4年(1767)に今の鳥居が奉納されました。

平成10年9月の台風により傾斜したので、解体修理を行い、柱根石を交換しました。その基礎石になります。

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伏見義民事蹟

 「天明5年(1785)、伏見奉行小堀政方の悪政を幕府に直訴し、伏見町人の苦難を救い、自らは悲惨な最期を遂げた文殊九助ら7人を伏見義民という。江戸時代(1603~1867)伏見は交通の要衛として栄え、政治・経済上重要な地であったため、幕府の直轄地として奉行所が置かれた。安永8年(1779)に奉行となった小堀政方は数々の悪政を行い、住民に対する苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)は言語に絶するものがあった。文殊九助、丸屋九兵衛、麹屋伝兵衛、伏見屋清左衛門、柴屋伊兵衛、板屋一右衛門、焼塩屋權兵衛の七人は、奉行の悪政に虐げられた住民の苦難を座視するに忍びず、苦心惨憺の末、天下の禁を破って幕府に直訴した。このため、天明5年(1785)政方は奉行を罷免されたが、九助ら七人も獄中で相次いで病死した。この碑は明治20年(1887)に建てられたもので碑文は勝海舟の撰、題字は三条実美の書である。毎年5月18日には伏見義民顕彰会によって慰霊祭が執行される。」

亡くなってから100年後に建てられたんですね。

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黒田節誕生の地

「酒は飲め飲め飲むならば、日の本一のこの槍を 飲みとる程に飲むならば これぞまことの黒田節」

という福岡県の民謡があります。

 私もちょっとだけ詩吟をかじっていて、この黒田節は結構好きでした。

それもあったので、思わず足を止めてしまいました。

 

福岡藩儒学者貝原益軒著「黒田家臣伝」の母里但馬伝(もりたじまでん)に登場する逸話が元となっています。伏見桃山の地にあった戦国大名福島正則の屋敷での酒宴に、黒田家家臣の母里太兵衛(もりたへえ)が招かれたときのこと。正則は大きな鉢を杯に見立て、「これで酒を」を勧めたところ、あまりの大きさに太兵衛は断りました。しかし飲んだら望みを叶えると強いたため、太兵衛は槍を所望します。その槍は、正則が豊臣秀吉から賜った秘蔵の品。正則は勢いで承知したところ、太兵衛は見事に飲み欲し槍を持ち帰りました。後悔した正則が返してほしいと何度も使いを出したが、返してもらえませんでした。この銘槍「日本号」は別名「呑み取りの槍」とも言われ、福岡市博物館に収められています」

 

 これでも端折りながら書きましたが、見どころたくさんなんですね~。 

改めてびっくりしました。