宮中では元旦早朝の「四方拝(しほうはい)」に始まり、14日まで正月行事がありました。嵯峨天皇の時代から、元旦から7日までを神道祭祀で、7日から14日までを仏教祭祀で行うようになりました。
1月15日の小正月に行われたのが左義長神事で、神仏習合の神事です。
宮中の清涼殿東庭に青竹を束ねて建て、毬杖(ぎっちょう)三本を結び、その上に扇子や短冊などを添え、陰陽師が謡い囃しながらこれを焼いたとあり、櫓が倒れた方向や炎の上り方によって、その年の吉凶を占ったとされています。毬杖を三本結ぶことから三毬杖(さぎちょう)と呼ばれました。今は、正月に飾った門松やしめ飾り・書き初めを櫓に組んで焼却します。
聖護院の初代宮門跡が後白河法皇の第9皇子、静恵法親王だったことから、鎌倉時代以降、聖護院門跡が紀州の熊野三山と京都の新熊野神社の検校(けんぎょう)を兼ねるようになって、応仁の乱まで関係は続きました。熊野といえば修験道、熊野山伏の総支配が聖護院だったことから、今も密接な関係があります。
2時間前に着いたら・・さすがに早すぎました。神社をゆっくりと回って、あとは準備を見守っていました。10時半頃には人だかりができていました。
10時45分頃、聖護院の山伏たちが櫓の下に灯油を撒きました。さすがに灯油を入れないと燃えないそうです。
11時から神事が始まります。
まず、宮司から神事の説明がありました。この宮司のトークがとてもおもしろくてよかったです。
神事の際、杖を持って先頭に立つ人を儀仗兵(ぎじょうへい)といいますが、左義長は、左儀仗、どんと焼きと言ったりもします。
祝詞に、「筑紫の日向(ひむか)の橘の小戸(おど)の阿波岐原(あわきはら)に」
という言葉があり、これはイザナギが禊祓をしたという話です。
ここには川がないため、水の代わりに白い半紙を水に見たて、それに塩を混ぜて禊の代わりとするそうです。
なぜ食べ物でないものがお供えしてあるのかと思っていたら、そういうことかと納得。
まず、本殿で法要がありました。見ておりませんが、巫女が笛や太鼓の音とともに舞っていたようです。鈴の音も聞こえてきました。この時は本殿の中に入れるようになっていたので、またこちらも見てみたいですね。
そのあと、禊をし、お祓いがありました。
この禊とお祓いも、宮司さんが参拝者全員に順番にしてくれます。
「もう罪ある人いない~?」と聞いて、2度目の禊もあったり。
最後の塩は宮司本人の頭にかけ、「これが大事やねん」と(笑)
吉凶を占う陰陽師の役目は参拝者自身だとも。
そして、雅楽の演奏、祝詞奏上とつづきます。
そして、山伏が櫓に点火し、ほら貝を吹き、般若心経を唱えます。
般若心境は参拝者にもコピーを頂けますので、一緒に唱えました。
火はあっという間に全体に広がり、激しく「パーン」と木の割れるような音もしました。
その年の恵方に倒されるのですが、今年は東北の方角に倒れましたので・・あまりよくないそうです^^;
参拝者たちは、玉串を奉納し、お神酒とお下がりを頂きます。
このお下がりは本来は、おぜんざいの接待を受けるのですが、今年は9日(成人式の日に行われるため)と早かったので、準備ができず鏡餅のお下がりだそうです。
頂いたお餅。早速焼いて頂きました。
―おまけー
撮影した炎が・・手の形に見えてゾーッ。
悪い“気”を吸った正月の飾り物たちの、最後の断末魔のように見えました。
くわばらくわばら・・。
寒いからと、たき火のように当たっている人もいましたが・・それは違うだろう・・と言いたかった^^;
やはりこれは成仏を祈る神事だと感じました。
こういう神仏習合の行事はなかなか興味深いですね。