京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

伏見散策③ 寺田屋、伏見寺田屋殉難九烈士之碑、坂本竜馬先生遭難の址、寺田はま、伏見口の戦い激戦地跡、伏見長州藩邸跡、龍馬とお龍 愛の旅路像

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寺田屋に最後に行ったのが・・まだカメラがフィルムの時代^^;

いい加減撮りなおしたいなぁと思っていたのですが、すでに閉まっていたのでまた今度。

文久2年(1862)4月、尊王攘夷派の先鋒であった薩摩藩士九名が殺傷されるという明治維新史上有名な寺田屋騒動が起こった所です。

東寺薩摩藩には藩主の父、島津久光おw中心とする公武合体を奉ずる温和派と勤皇討伐を主とする急進派との二派がありましたが、久光は急進派の動きを抑えようとして兵千余名を率い京都へ入洛しようとしました。これを知った有馬新七ら三千余名の急進派同志は、文久2年(1862)4月23日関白九条尚忠所司代酒井忠義を殺害すべく、薩摩藩の船宿であった寺田屋伊助方に集まりました。これを知った久光は藩士奈良原ら八名を派遣し新七らの計画を断念させるべく説得に努めましたが、失敗、ついに乱闘となり新七ら七名が斬られ、二人は重傷を負い、翌日切腹しました。

広場にある殉難碑は明治27年(1894)建立で、有栖川宮熾仁(たるひと)親王の筆になる篆額(てんがく)を掲げています」

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伏見寺田屋殉難九烈士之碑

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坂本竜馬先生遭難の址

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薩摩藩九烈士殉難の址

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寺田はま

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伏見口の戦い激戦地跡

「江戸時代、京へ向かう高瀬舟、大阪へ向かう三十石船、山城へ向かう淀二十石舟、宇治へ行く芝舟など、千百百隻にも及ぶ舟運でにぎわった伏見港の中心がこの京橋付近です。角倉了以による高瀬川開削で洛中と伏見が舟運で結ばれるとさらに発展しました。ここから蓬莱橋北詰を結ぶ南浜の一帯には大名の宿泊する本陣が4軒、家臣が宿泊する脇本陣2軒をはじめ、39軒の旅籠が軒を連ねていました。江戸幕府は伏見を伝馬所として位置づけ、問屋場には人足100人、馬100頭が常時用意され、前の宿場から運ばれてきた公用の荷物を積み替え、次の宿場まで搬送するという継ぎ立組織がありました。一般の荷物を扱う馬借も旅人や荷物でにぎわっていました。橋の南詰には三十石舟のように運上金によって幕府に公認された過書を取り締まる「過書舟番所」一般の船を検閲す、船番所、人足、駕籠、馬借の賃料などを掲示する「船高札場」などが設けられました。

幕末の慶應4(1868)年1月2日、鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊約200名が大阪から舟で伏見、京橋に上陸。ここで伏見御堂を宿陣としでもらいました。伏見奉行所に陣を置いた藩府うあ新選組が民家に火を放ちながら、淀方面へ配送したので、このあたりの多くの民家が焼かれ、大きな被害を受けました。」

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伏見長州藩邸跡

平成21年12月建立。これも比較的新しい石碑ですね。

 「長州藩の藩粗は毛利輝元でその父、元就は豊臣秀吉に仕えた名高い戦国武将。その領地は中国地方の大半を占めていました。伏見城造営当所の判定は『豊公伏見ノ図』や中井家所蔵の『伏見城絵図』によれば城下の西の端、大名屋敷の一角と毛利橋の東に『毛利長門守』の屋敷が記されています。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで輝元は西軍の対象として参戦して敗戦。徳川家康は戦争責任を問い輝元を隠居させ、その子秀就に周防と長門の2国、現在の山口県を与えました。

江戸時代中期の元禄12(1699)年の『御香宮文書』には中書島の新地開発を許可されたことが記されており、この時期以降に藩邸がこの場所に移転してきたと考えられます。この辺りと三栖向町の間には船大工町があり、船や船具製造に従事する人々が暮らしていました。屋敷地には通りに面して町屋が立ち並び、判定がその奥にあるような形態をしていました。

幕末の元治元(1864)年7月19日未明、長州藩家老の福原越後はここ伏見長州藩邸から武装した約500名の兵と共に、京へ進軍しようとしました。

その途中、伏見街道の稲荷付近から竹田街道を守る大垣・会津・桑名・鯖江の藩兵と衝突、禁門の変が勃発しました。福原が率いる長州勢は敗走して伏見藩邸に立ち戻り、態勢を整えて打って出ましたが、彦根藩や他の連合軍が京橋から伏見藩邸を砲撃、このため伏見長州藩邸は焼け落ちてしまいました。」

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龍馬とお龍、愛の旅路像

十石船に乗っているときに説明があり、そんなの前からあったー?と見に行ってきました。

平成23年9月に建立されていました。

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薩長同盟を締結させた直後の慶応二年(1866)、寺田屋に宿泊していた坂本竜馬は、伏見奉行所配下の捕り手に囲まれます。

この時危機を察知したお龍により、命を救われた龍馬は、しばらく伏見薩摩藩邸にかくまわれていましたが、右手の傷を癒すためここ寺田屋浜から三十石船に乗りお龍とともに九州の霧島へと旅立ったのです。」

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龍馬さん、りりしい・・w

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こんな風に川沿いに立っています。