曽祖父は愛媛に住んでいましたが、長男(私の祖父)や親戚が東京に出たので、
時々行ってついでに観光していたようです。
行くといっても、まだ新幹線もないので、愛媛から船で広島へいき、そこから電車に乗り換えて東京へ着くのが1日後という、行くまでに2日がかりです。それが約100年前の話。
日記に残していたので、何に興味があったのが知りたくてそれを辿ってみようと思いました。
京都編がこちら
(大正2年(1913)4月2~13日の日記)
『2日、電車にて神保町え着き下車して、吉田旅館え宿った。翌日は湯島天神(湯島天満宮)、不忍池の中の瓣天様を見て、上野公園、動物園、博物館を見て浅草観音へ参詣して吉田旅館え帰って泊り、翌日九段坂靖国神社、近衛師団(陸軍の軍用施設、現千代田区北の丸公園の東京国立近代美術館工芸館)を廻って、二重橋、桜田門を見て旅館へ帰って休み、八日は雨が降った。翌九日は高輪泉岳寺え行った。四十七士の墓(赤穂義士)、乃木像(乃木希典)を拝して旅館え帰って休み、翌十日に青山御殿(芝東証郡のことか?)、芝公園、増上寺、愛宕公園(港区愛宕近くの虎の門に乃木希典の旧居跡があるので、これではないか?)、両国橋、回向院、国技館、向島、浅草の千代館で活動写真見て、夜は吉原へ行って見た。旅館え帰って休み。(略)』
今回のホテルなどの都合上もあり、私はまず泉岳寺へ。
見ているのは中門。
もともと総門、中門、山門があったけど、今は中門と山門のみ。
これは天保7年(1836)に再建され、昭和7年に大修理されたもの。
「萬松山」の額は、中国明時代の禅僧・為霖道霂(いりんどうはい)による書。
山門
浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたもので、
のちに寄進され、大正10年12月に除幕したもの。
(ということはこれは曽祖父は見ていないな・・)
当時の風俗である元禄羽織を身に着け、連判状を手にして東の空(江戸方向)をじっとにらんでいる様子を表したものだそう。
本堂
曹洞宗の寺院。
慶長17年(1612)に門庵宗閑(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝情して、徳川家康が外桜田に創設した寺院。(現在のホテルオークラの近く)
寛永18年(1641)に消失、現在の高輪の地に移転。
赤穂藩主浅野家の菩提寺だったことから、元禄15年の義挙(1702年12月14日)の後は赤穂四十七義士の墓所としても知られている。
現本堂は、第二次世界大戦の空襲で消失し、昭和28年12月14日に落成した鎌倉様式の建築となっている。
御本尊は釈迦如来、ほかに曹洞宗の宗祖道元禅師、瑩山禅師、大石内蔵助の守り本尊である摩利支天(秘仏)が祠められています。
梵鐘・鐘楼
大正2年に作られた鐘。
江戸から明治まで使われていたものは、現在ウィーンの国立民族博物館に所蔵されています。
水琴窟
瑤池梅
義士の墓守をしていた堀部妙海法尼が瑤泉院から賜っ鉢植の梅を移植したものと伝わっている。
血染の梅、血染の石
浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際、その地がかかったと伝えられている梅と石。
首洗い井戸
義士が本懐成就後、吉良上野助の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したことから。
義士墓入口
大内家の墓
入口で御線香代を支払うと、こんなに大量に!
あまりの量にむせ返りそうになりました。
どれがどなたの墓かはちゃんと書いてあるのがありがたいです。
といっても、ごめんなさい、よく知りません・・。
大内内蔵助の墓
浅野長矩公の墓
浅野長矩公夫人の墓
お墓で出会った83歳のおばあちゃん、50年ぶりに来たそうです。
その時は今みたいな石が敷かれていなくて土の上にお墓があったとか。
曽祖父が見たのもそんな風景だったのかなと思いを馳せることができました。
ちょうど来週が義士祭り・・見たかった。
赤穂義士ゆかりの地は、大阪や京都にもあります。