つづいて上野へ。
上野公園に来たのは小学生以来かもしれない。
こんなにごちゃごちゃしてたっけ?
下は砂地で広々していた覚えがあります。
彰義隊(しょうぎたい)の墓
慶応4年(1868)大政奉還後、15代将軍徳川慶喜の一橋藩時代の側近小川興郷らが集まって、新政府軍へ反発で作ったのが彰義隊というとのこと。上野戦争で新政府軍に半日で壊滅させられたとか。
清水観音堂
寛永8年(1631)に建立。
京都の清水寺を見立てたお堂だそう。
当初は上野公園内の擂鉢山(すりばちやま)に建てられましたが、工事に伴い元禄7年(1694)に現地に移築されました。
国指定重要文化財。
木の間から弁天堂が見えます。
変わった形ですねー。
人形供養碑
こういう古めかしい石碑が好きです。
屋台が邪魔だな・・。
寛永2年(1625)に創建。
不忍池は琵琶湖に見立てられ、竹生島に因んで池中に中之島(弁天島)を築き、竹生島の宝厳寺の大弁財天を勧請し、弁天堂を建立しました。
昭和20年の空襲で消失し、昭和33年に再建。
右横から、池の向こうへ渡れるようになっています。
池側から見ると六角形になっています。
ただ、このビルとボートの景観が残念・・。
芭蕉翁
ふぐ供養碑
大黒天
豊臣秀吉公が大切に護持した大黒様を祀る。
戦災で消失したが、昭和43年に再現。
祭神:大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)
相殿 菅原道真命
祭神 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
忍坂
薬師如来が祀られています。
上野大仏
寛永8年(1631)、越後の国村上城主堀丹後守直寄公旧自邸内のこの高台に、戦乱に倒れた敵味方将兵の冥福を祈る為に、土で釈迦如来像を造立。
聖堂大仏は、明暦・万治の頃(1655-60年)木食僧浮雲師により銅佛に改められた、
仏殿は元禄11年(1698)露座の大仏に仏殿が建立。
その後に火災に遭い、また大正12年の関東大震災によって佛頭がおち、佛体は解体されたが、昭和47年尊顔を旧地に迎えて再建。
なぜかトーテムポール
おばけ灯籠
寛永8年(1631)に佐久間大膳亮勝之が東照宮に寄進した石造灯籠。
大きさは高さ6.0.m、笠石の周囲3.63mと巨大でこう呼ばれている。
同じ勝之が寄進した京都南禅寺、名古屋熱田神宮の大灯籠とともに、
日本三大灯籠に数えられる。
寛永4年(1627)に津藩主藤堂高虎と天台宗僧侶天海僧正により、東叡山寛永寺境内に家康公をお祀りする神社として建立。正保3年(1646)に正式に東照宮となりました。
立派な石灯籠がすごく並んでいてびっくり。約200基あるそうです。
寛永8年(1631)に上野東照宮の一部として建立。寛永16年(1639)の火災により消失、再建されたもの。
明治時代の神仏分離令で取り壊し対象となり、宮司は手放して、寛永寺の所属であると申し出たことにより取り壊しが免れました。国の重要文化財。
銅灯籠
参道の灯籠を横から見ると、また迫力!
狛犬の石工、酒井八右衛門寄進の鈴
鳥居や狛犬などには酒井八右衛門、墓碑や顕彰碑には井亀泉の銘を刻んだ。
鈴の来歴は不明で、昭和30年頃珍品であるので人目につくところにと、この水屋につけられたとのこと。
唐門
1651年造営の国指定重要文化財
唐破風造り四脚門。
左甚五郎作の昇り竜、降り龍の彫刻、扉には若草格子、扉上には亀甲花菱、
正面上部には錦鶏鳥・銀鶏鳥の透かし彫りなど。
なかなか立派なので、有料で中も拝観することにしました。
樹齢約600年の大楠
幹周囲約m、高さ約25m
栄誉権現者(お狸様)
四国八百八狸の総師、奉献された大奥で暴れ追放後、大名・旗本諸家を潰し、大正年間本宮に奉献された悪業狸、他を抜く(たぬき)という縁起から強運開祖などと信仰されています。。
透塀慶安4年(1651)造営。国指定重要文化財。
社殿の東西南北を囲んでいて、上段には野山の動物、下段には海川の動物の彫刻が内外両面に200枚以上描かれています。
社殿
慶安4年(1651)造営。国指定重要文化財。
現社殿は、三代将軍徳川家光公が造営替えしたもの。
本殿
拝殿
彫刻がほんと細かいです。見事!
時の鐘
花の雲 鐘は上野か 浅草か
芭蕉が詠んだ句は、この鐘のこと。
もともと江戸城内で撞かれていましたが、寛永3年(1626)に日本橋石町に移され、江戸市民に時を告げるようになったという。
元禄以降、江戸の町拡大に伴い、上野山内、浅草寺、本所横川、芝切通し、市谷八幡、目白不動、目黒圓通寺、四谷天龍寺などにも置かれた。
初代の鐘は、寛文6年(1666)鋳造。その後天明7年に鋳直されたもの。