なぜこの字を書くのか、2か所あるのかが気になっていて、
ようやく行ってきました。
祭神:正哉吾勝々速日天忍穂耳尊(まさやあかつかつはやひあめのほしほみみのみこと)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
天津日子根命(あまつひこねのみこと)
「皇極天皇はお夢の中で、吾れ天神故に下土に神陵なし吾が霊を祭祀し給へとの大神の御告げに恐懼され藤原鎌足公に詔して木幡荘に神殿を造営し、大化元年九月十六日(645)に奉遷し、式内木幡(許波多神社)と尊稱さる。天智十年十月大海人王子(後に天武天皇)は天智天皇と意見の相違が生じて大津の宮より吉野へ向かわれる途中、当神社前で竜馬が進まず●●に柳枝を奉りしに、親王は御自らその柳枝を瑞垣の側土中に差しこみ神明の冥助を祈願し賜いし処、不思議や龍馬が急に進みて無事に吉野に到着さる。大海人王子は壬申の乱に御決戦夜、白●二年一月飛鳥浄御原宮で即位し給う。兵草の患いなく、天下よく治まると共に彼の●●も●●●●●是偏(ひと)へに神明の御加護と叡感あり。神柳に正一位官幣を寄進さる。よって柳大明神と奉稱する。(略)
明治四十二年一月田中神社を合祀して今日に至る」
先日の大阪地震の影響か、鳥居付近が近寄れなくなっていましたが、奥から入れました。
本殿
舞殿
左から春日・天照・八幡・合祀殿
続いて、黄檗駅の許波多神社へ。
こちらは駅から15分くらいあります。
なかなか趣のある石碑と鳥居ですね。
神紋は十六八重表菊紋。
扁額は結構新しいです。
書いてあることがちょっと違いました。
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
御祭神 天忍穂耳尊
神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)
諡(おくりな)神武天皇
「当神社は孝徳天皇大化元年(645)勅願に皇祖の御神霊を奉祀するため創建せられ延喜式神名帳(927)所載の大社である。永禄十二年(1569)9月正一位の神階を宣叙せられた。
明治八年旧大和村柳山境域三万六千余坪擁し鎮座の故に柳大明神と称し奉った。
寛永十七年(1640)の秋五ケ庄及び近在に牛馬疫流行信尋公が牛馬疫と心労で病める人々の平癒祈願をこめて次の和歌を御献詠になったところさしも激しかった疫病も急に治まったという(山城名勝志にも記載)
燐をたるる 柳の神ならば
死ぬるをうし 思ひやはせぬ
延宝六年(1678)社殿営膳のおり宮中より金品を賜った。
天和二年(1685)遷宮のおり神祇菅領吉田兼連卿御参向近衛家より正福奉幣帛を供進せられた。
累代例祭遷宮祭等には近衛家より奉幣使が参向されるのが恒例となった。明治九年柳山境内地が陸軍火薬庫用地に上地仰付られ旧岡屋村神社御旅所だった現在地に移転。
柳神社を現名称に復した。」
社務所で頂いた神社の由緒書には、祭神の順番が違いました。
正哉吾勝々速日天忍穂耳尊(まさやあかつかつはやひあめのほしほみみのみこと)
天津日子彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほににぎのみこと)
神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)
諡(おくりな)神武天皇
ちなみに、天之忍穂耳命は、天照大御神の息子で、瓊瓊杵尊のお父さんになります。そして瓊瓊杵尊の曾孫が神武天皇、つまり天皇家の先祖になるわけです。なので菊紋なんですね。由緒書きはその順番に書いたのでしょうね。
瓊瓊杵尊は、木花開那姫命(このはなさくやひめのみこと)に一目惚れしますが、その父の大山衹神は、木花開那姫命とともにその姉磐長姫命(いわながひめのみこと)を貢ぎました。しかし瓊瓊杵尊は磐長姫命があまりに醜かったので、大山衹神に返してしまいます。
大山衹神は天子の命が石(磐長姫命)のように恒久であれと契約をして貢いでいましたが、磐長姫命が返されたことで瓊瓊杵尊の子孫である天皇および人間は長寿でなくなったとされています。
こちらにも記載しています。
社号の由来は、宇治市の川東、東宇治、伏見区桃山南口あたり一円の地名を「許波多」「木幡」「許の国(このくに)」と称していたそうです。創建当時、許波多神社或いは木幡神社と号していましたが、柳山の鎮座の故に後に柳大明神と通称せられ、正式な社号となりました。明治九年に現在の地に移転後から、許波多神社に復称。
木幡駅の方の許波多神社はあとから分社されたそうです。
アジサイもきれいに咲いていました。
本殿
柳大明神の柳ですね。
神馬(しんめ):神様がお乗りになる馬のこと
「許波多神社が創建された飛鳥時代のような昔には、神様に祈願する際、願い事が成就するように、馬を神馬として奉納されることがありました。許波多神社においても昔には神馬が奉納され、祭礼がおこなわれたと考えられています。
江戸時代以前、柳山(現在の宇治市黄檗公園)に鎮座していたころは、社前から西の大池(巨椋池)に達する東西一直線の馬場道があり、北部・南部に分かれた氏子地域によって祭礼が執り行われていたという伝承が残されています。
社宝として現存する二つの鞍と鐙(あぶみ)は二頭の神馬が馬場道を荘厳に駆けていた様子を想起させます。」
黄檗公園はこのあたりになります。
もとはこのあたりが許の国といわれていて、許の国の端だから木幡というのはわかるけど、許波多神社があったのに、なぜここが木幡じゃないんだろう・・?
もともとは木幡で、黄檗宗萬福寺ができたから、黄檗になったのかな?
そうだとしたら木幡は黄檗に追いやられたのかな・・?
んー、やはり謎です。
御神木の瘤(こぶ) ガン封じ他身体全体の病を癒すといわれています。
やり方も細かく書かれていました。
①瘤に向かい二拝・二拍手
②手を合わせて「祓へたまひ、清めたまへ」と三回奏上。
③痛い箇所、弱い部位をさする。
④二拍手一拝
萬福寺の駅の近くに、「許波多神社の旧一ノ鳥居の礎石」がぽつんとのこっています。柳山に神社があったころ、ここが参道となっていたからです。