島原は京都駅からほど近いところにあります。
江戸時代以来栄えた花街として発展し、寛永18年(1641)官命によって島原の前身である六条二筋町から現在の孔雀野の地に移されました。その移転騒動が、九州で起きた島原の乱を思わせたところから、島原と呼ばれてきましたが、正式名は「西新屋敷」といいます。
明治以降にさびれていき、現在では揚屋の「角屋」と置屋の「輪違屋」、島原入口の「大門」のみがこのころの様子を残しています。
このあたりも雰囲気があって好きです。
最初にここを知ったのは、2003年。
新選組関係で訪れました。角屋さんの2階の青貝の間が素晴らしくて、感動したことを覚えています。
それからふらっと行くことはあるんですが、角屋さんのその部屋をもう一度見たいのになかなか行く機会がなく^^; (春と秋公開、事前申し込み)
今年の「京の夏の旅 特別公開」で輪違屋が対象になっていたので、これはいかなければ!
角屋さんの写真も撮りなおしたかったんです。
「大夫や芸子をかかえていた由緒ある置屋で、元禄年間(1688-1704)の創業と伝える。
現在の建物は安政4年(1857)に再建されたといわれるが、その後増改築がなされて、明治4年(1871)にほぼ現在あの姿になっていた。
平面構成は複雑だが、大きく分ければ、一階南半分の居室部分と、一階北半分及び二階を占める客室部分からなる。客室は全部で十数室あり、なかでも二階の傘の間と紅葉の間が主要な座敷で、その襖や壁の斬新な意匠には目を見張るものがある。輪違屋は建築的に質が高く、また古い置屋の遺構として貴重であり、昭和59年6月1日、京都市指定有形文化財に指定された。」
ちなみに現在も営業されています。
よく遊郭と勘違いされますが、花街は、歌や舞を伴う遊宴の街で、昔は子が母を連れて来たりもしたそうです。
太夫は、歌舞音曲、茶、花、和歌、俳諧など多芸で豊かな教養のある最高位で、「こったい」とも呼ばれます。「太夫道中」は揚屋の客から招かれて、置屋から出向くためのもので、禿や引舟を引き連れて、内八文字で歩きます。
かんざしを前左右に6本もさし、帯は前結びで「心」という字に結びます。頭だけで5-6kg、着物など含めると、全身で30kgはあるらしく、舞妓さんたちみたいには早々歩けないですよね・・。
一度くらいは見たいんですけどね。
この紋がまたおしゃれですよね。
1階は写真撮影OKなんです。
養花楼と書いてあります。創業当時の名前になります。
坪庭は、柱を建てずに広々と見せています。
この景観は素晴らしい。
そして天井の柱は一本杉!これまた見事です。
かわいらしい灯籠ですね。
襖には大夫が書いたお返事の下書きが貼ってあります。
達筆すぎてまったく読めない・・。
説明では恋文と言っていましたがw
よしの大夫の書
マリア燈籠
これ、どこの部分だと思いますか?
天井の柱の一部です。なんだかこれだけでおしゃれに見えます。
二階は写真撮影禁止になります。
京の夏の旅のパンフレットの表紙にもなっている傘の間は、襖に大きな銀箔の無地に道中傘の紙を貼りこんだものになっています。桂小五郎筆の掛け軸もあります。
そして紅葉の間は、本物の紅葉を塗りこんで乾燥後に取り出し、そこへ原料などで着色したもので、本当に紅葉が壁に埋められているかのような細やかさで圧倒されます。
そして太夫の間は、太夫の控の間で、太夫の打掛が掛けられていました。