2017年3月の連休に、愛媛へ行ってきました。(いまだ全然まとめられていない)
同様に調べている人たちと、どこかで繋がればいいなぁと思い、公開できるところだけ書いて行きたいと思います。
ということで、ちょっとだけ歴史について触れますね。
私は先祖は、戒能(かいのう)家です。
戒能は、中世の伊予国を治めていた豪族、河野(こうの)家の家臣として活躍していました。河野家は『吾妻鏡』にも出てきます。源頼朝側について挙兵し、実朝の時代まで深いかかわりを持っていたようです。河野通信は、3年半(わかる範囲で・・1199年10月-1203年4月)鎌倉で過ごしました。そして1205年閏7月29日、伊予国御家人32人を通信の支配下として務めるよう実朝から御書が下されました。
河野氏一門三十二将の一人であった戒能備前守通盛は、井内村の小手滝城、則之内村の大熊城の城主を務めました。
(私が中世時代、源氏に興味があるのはこのあたりのことも関係しますw)
簡単に書いた系図。実際はもっと複雑・・。
先祖は、東温市温泉郡三内村(井内村、則之内村、河之内村)と久米郡鷹子に住んでおり、ほとんど身内婚で血縁を結んでいました。先祖には、戒能家、八木家、高須賀家、近藤家(ツナの母)という、当時の豪族がずらり。興味を持たないわけにはいきませんよね。
伊予史談会編纂の『戒能資料』
「戒能与惣左衛門通常
―(略)―延宝五丁己の年、松山の領主隠州公より庄吏の勤め宜しく聞召し八木拝領せり」
「当家譜代の家臣八人あり、其内八木、高須賀、西、是等の末裔今に至るまで是あり」
つまり、八木、高須賀もまた、戒能の家臣であり、八木は戒能から分家したものと思われます。同様に戒能も、河野家から分家したものと考えられています。
もちろん二次・三次資料で確証もないですけどね。
そういうこともあって、すべての家系を調べており、かなり時間がかかっています・・。
今回の旅行は3日間。
井内村も行きたかったのですが、さすがに遠いので今回は断念しました。
井内村はこのあたりになります。
航空写真で見ると、土地がよくわかります。
高知から山越えで攻められたときの防衛として、井内村の小手滝城が任されていたのでは・・?と考えています。
旧三内村の地図は、「とうおんデジタル資料館」 『川内町誌』 (昭和三十六年四月刊行) に掲載されています。
後に三内村と合併して、温泉群川内村になりました。
私の父方の曾曾祖父母&母方の曾曾祖父母に、八木常蔵・タマ夫妻がいました。その子供に常蔵・アサノ・基一がいました。(井内村北間)
アサノ(宇三郎に嫁ぐ)は、27歳頃(1916年頃)川上神社の近くに住み、薪炭商をしていました。このあたりには、タマ(旧姓松木家)の実家があり、その親戚たちも住んでいたので、その縁で移り住んだと思われます。
「この松木という姓は川上村に多く、明治・大正時代には村長を務めたものもいる」と祖父毅も書いています。
※ここでは、わかりやすく戒能と書いていますが、実際は江戸時代に養子に入っており苗字は変わっています。常蔵・タマの母コメの実家も戒能(則之内村惣田谷)になります。そして父方の祖母&母方の祖母が高須賀家(則之内村惣田谷)です。
私にとっては、三内村の次にゆかりがある村、ということで、まずはここを訪れたわけです。
(祖父毅の自伝より)
「大宮社を中心に東西に二キロほど延びた商店街があった。道路が家並みの北側を走り、その北側に幅三メートルほどの川が流れていた。叔母(祖父の父の妹/私の曾祖母)の家から五十メートルほど東へ行ったところに石橋があり、橋の向こうに石の鳥居。そこから高い石段を登ると、東西へ通ずる道路がよこぎっており、その向こうにまた鳥居があって、更に数段の石段を登った向こうに大きな社殿があった。昭和19年に県社となったが立派な神社だった。」
温泉郡川内町南方川上にある川上神社がこれにあたります。
もともとは、大宮社、河上社、河上大宮社、稲荷五社大明神などと称せられていたが、明治4年に「川上大宮五柱大明神」に、明治28年には「川上大宮五柱神社」に、そして昭和18年には現在の「川上神社」と改称しました。
地図を見ていたらまさにここだっ!と感動ものでした。
今も川と石橋があります!
扁額は大宮五柱神社になっていました。
鳥居の左手(西側の風景)
石垣のようなものがありました。
幅3mはないと思いますが、川が流れています。
このあたりに住んでいたのかなーなんて思いながら歩いてみます。
左 金毘羅道、嘉永3庚戌極月・・と書かれています。
嘉永3年(1626)、この年は丙寅なんだけどな・・??
庚戌だと、寛文10年(1670)のはず。極月は12月のことになります。
この界隈は、金毘羅街道の重要な宿場町として栄えていました。
階段を上がったところ。
一番左の玉垣(石柱)に、高須賀東四朗重三とありました。
先祖にゆかりのある苗字を見つけるだけでウキウキします。
松瀬川村
高須賀五良次、近藤十次郎の名がみえます。
縣社昇格記念井戸
(由緒書きなどなかったので、以下、『川内町誌』 より抜粋)
祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、稚産霊命(わかむすびのみこち)、
猿田彦神(さるたひこがみ)
境内神社 荒神社 大無主命 日廼安良魂命
※愛媛県神社庁のホームページには以下のように書かれていました。
大分変わっていますね・・。
三島神社(大山積神)、荒神社(大物主命)、 秋葉神社(弥都波能売神、外一柱)
和霊神社(山家公)、 戎子神社(事代主命)、 八幡神社(応神天皇)
床浦神社(田心姫命、外二柱)、 天満宮(菅原道真公)、 鎮守社(埴安姫命)
大塚神社(荏原経高)
由緒 北方古宮にあった当社を、応永三十四年(1427)河野通久公の御心願によって、現在のところへ御造営奉遷した。其の後、社仏廃合の時合祀して、川上大宮五社大明神と号するようになった。あわされた五社とは、来名戸宮、豊受宮、饒田宮、倉稲魂宮、浮橋宮である。この宮郷社に列して、北方、南方、松瀬川下分の大氏宮で、後県社に昇格、川上神社と改められた。(略)
応永中(1394~1428)、高須賀堯倫、河野家に仕え、南方村庄屋を命じられ、その子堯基が庄屋となった。そして河野家より、祈願所川上稲荷五社大明神(当神社)の社の守を命じられた。宝庫国の鍵を預かり、高須賀家代々継承。堯普が死亡したことによって社守は終わったといわれている。現存している木製の狛犬一対は、室町時代に河野家より奉納されたものだと伝えられている。寛永4年(1627)、高須賀堯章は、南方村庄屋となり、浮穴郡庄屋頭を命じられ乗馬を賜ったという。また、天保12年(1841)9月、氏子頭高須賀堯芳、重松元決、玉井正昇より、正二位飛鳩井惟光、正二位鷲尾隆純、正二位三条実萬が書いた和歌額を奉掲している。
つまり高須賀家は、この川上神社の守を代々継承されていたわけなんですね。
狛犬は新しくなっており木製のは確認できませんでした。
何の石碑かわかりませんでしたが、古そうな石碑ですぐ目に飛び込んできました。
見ると、高須賀重堯 とありました。
その上には、高須賀堯晋の名も見えます。
この堯晋が最後の社守ですね。
川上郷五社神神
福人人亦真五穀
豊民寧楽威霊曜
光益新***
というように読めますが、意味はわかりません。
ここにも高須賀東四朗の名前がありました。
東温市立図書館『川上村のおもかげ』P23には、幕末の頃の古老傳で、南方村の組頭とありました。
そして下には近藤八蔵という名がありました。
郷社 大宮三社大明神
明治12年(1879)己卯良月三石(?)南方村中 ** と読めます。
本殿
境内は結構広かったです。
川上神社古墳出土馬具
こちらにも川上神社古墳の説明がありました。
大正3年に発見され、昭和25年県指定史跡となっています。
横穴式石室の古墳で、墳丘の大きさは約40mと20mの長方形または長円形で、高さは約5m。
墳丘には二つの石室があって、東側の石室は開口されているが、西側は閉鎖されている。
らしきものを探してみるもよくわからず・・。残念。
この社も変わっていますよね。
あとは寄付金が書かれたものがありました。
こちらは5~7万円。
高須賀義男さんは10萬円也。石柱も立派ですね。比較的新しいです。
こちらは川上神社本殿修復
右から2番目に金壱萬円也 高須賀大次郎の名がみえます。
ずっと見ていくと、金壱萬円也 高須賀●一、高須賀忠●、高須賀常久の名がありました。
このあたりの石柱にも、細かい字で名前が書かれています。
左端の柱の一番下の右から2番目に、高須賀芳平・・かな?
こちらは真ん中の柱に、金五拾円 高須賀正一とあります。
先ほどの金壱拾萬円と同じ大きさなので、おそらく時代が古く同額ぐらいかと思われます。
先祖と直接関係ありそうな名前はなかったけれど、おそらくどこかではつながっているんじゃないかなーと思うだけでも、なんだか嬉しかったです。
この神社では、戒能や八木の名前は見つけられませんでした。