三内村は河之内村、則之内村、井内村からなります。
明治22年の町村制により、字 徳吉、則之内北、則之内南、永野、一ケ谷、保免、和田丸、惣田谷上、惣田谷下は、下浮穴郡三内村則之内となり、明治30年4月に温泉郡となりました。(曾祖母高須賀ツナは惣田谷出身。)
三島神社は、河之内村と則之内村の二か所にありますが、河之内村にはあまり親族はいないこともあって、則之内村の方へ行ってきました。
車で行ったのですが、川上神社からも近かったです。
京都の三島神社についてはこちらをどうぞ
変わった鳥居ですね! 古い感じがとっても好きな雰囲気でしたw
扁額も変わっています。三島宮と書かれています。
ただこれはちょっと新しそうな・・?
こちらも具体的な説明はなかったので、
『川内町誌 第二部三内』P476~より抜粋。
氏宮三島神社(則之内)
大字則之内宮之前
祭神 大山積命、雷神 高龗神
由緒 当神社は上古の世久米主命、神籠を立て大山津見を斉き祀って氏之宮大神と称し、氏神とした。人皇第四十三代元明天皇の御世和同5壬子年(712)8月23日、越智玉興、当国大三島から高龗神、雷神を勧請して合祀した。文永、弘安の役、蒙古襲来の節は勅を奉って、河野通有及び河野通純は国中の神社に祈誓、出陣し筑紫に下ったが、その時神の助けがあって手柄をたてた。嘉吉(1441-1444)の頃、名越の城主河野四朗が武器を奉納して崇敬したという。
越智は河野の先祖とも言われています。
つまり、河野家が信仰した神社になります。
写真はいつもとりあえず解鮮度高めで撮影して、あとからPCで詳しく見ています。
本殿に着くまでにいろいろ発見。
東京とありますが、高須賀茂の名がありました。
こちらは高須賀林平
昭和3年10月 比較的新しいですね。
世話人として、高須賀林平、八木嘉妻、戒能公玄、高須賀嘉作、高須賀秀吉の名がありました。
有形文化財 木造こまいぬ二躯
「阿形、吽形ともほぼ同じ大きさで、両像ともに力量感及び勢いがあり、丁寧な造りとなっています。表面に施されている塗りは江戸時代末頃に行われたもので、作られた当時は木地だったと考えられます。
胴体は一木造となっており、尾の部分だけ後で取り付ける工法となっています。
また台座の部分は裏面には四か所の穴があり、四本の脚を持った台座にこまいぬは置かれていたものと想像されます。こまいぬの作者については、随身像と作風及び材質が似ていることから同一人物の作品ではないかと考えられています。また製作時期は、随身像に書かれていた「延文5年、1359年」ごろに作られたのではないかと考えられています。」
随身立像 二躯
戒能静雄、高須賀フジ
よく見たら・・戒能の「能」の字が、本能寺の「能(右が去)」になっています。
たびたび火災にでもあっていたのでしょうか?
そして間の柱にも戒能の名が!
本能寺についてはこちら。
こちらは全部高須賀です。
拝殿
こちらの拝殿がまたすごかった。
大山積大明神
寄付者奉名がずらりと書かれています。
この中にも名前がいろいろ見られます。
以下、地域が関係ありそうなものだけピックアップしています。
幟(のぼり)奉納者に、
八木公成 保免、八木清一 保免、八木満 和田丸
ただ、平成10年とあるから、最近ですね。
他、鳥居改修工事寄付者芳名
昭和53年10月吉日
これも新しいですね。
惣田谷上区
金一萬円也 高須賀政数、高須賀信、高須賀哲、高須賀紋太郎
惣田谷下区
金一萬円也 戒能作平
金六千円也 高須賀定信、戒能猛、戒能俊●、高須賀茂、八木新三郎、八木岩市、
八木清●、高須賀佶、高須賀藤晴
金参千円也 八木忠幸
保免区
金参萬円也 八木清志
金壱万円也 高須賀平●、八木公●、戒能申●
金六千円也 近藤義則、八木隆義、近藤光雄
何かはわかりませんが、南方村からの奉納ですね。
こちらは川上村からの奉納
本殿。
南北朝時代の建立とされ、三間社流造となっています。
河野家の家紋がありました。
不思議な方向に並んでいる摂社。
高須賀富太の名がありました。
戒能公玄
小さい柱には、戒能光●、高須賀猶蔵、八木又市
先ほどの世話人の名にもあった、高須賀嘉妻
小さい柱には、高須賀岩太郎、戒能豊蔵
おおっ、ありましたよ、先祖に関係のある名前がっ!
私の曾祖父母の祖母の実家も戒能家で、兄の長男が虎(寅)太郎(本家/須之内村 惣田谷)、二男が豊蔵(分家/須之内村 惣田谷)なんです。
虎太郎は、1925年(大正14)5月31日没、豊蔵は1960(昭和35)6月没 88歳でした。
まさに同時代ですしね。
本家は、借金で差し押さえになってしまったのでないのです・・。