京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

自分のルーツを辿る4 愛媛旅行③ 南方村 熊野神社

はじめに・・私の両曽祖母ツナが高須賀になります。

戸籍によると、則之内村高須賀源八の長男伊五郎の長女になります。

ただ、ツナのメモでは、源八ではなく綱次なんですよね。

曽祖母がわかりにくければ、下記系図をご覧ください^^;

『川内町誌 第二部三内』P497 埋葬墓地管理者名簿(昭和30年現在)

惣田谷 高須賀伊五郎の名があります。

『川内町誌 第二部三内』P501

東谷郷道の改修
起点 大字則之内一ヶ谷国道三一号線より 終点 大字河之内金毘羅下松尾坂取付まで 竣工 明治三十四年四月二十八日
助役
高須賀源吾

西谷郷道改修 起点 大字則之内法界門橋より 終点 大字井内宮川まで 起工 明治三十四年十一月十五日 竣工 明治三十五年五月二十五日 助役 高須賀源吾より曽我部伝三郎に終る 委員 菅野兼太郎、高須賀作平、渡部藍蔵

源吾は、ツナの弟で、1914年松山の第三十二連隊に入隊し、朝鮮の龍山へ渡って、帰国後赤十字病院で勤めました。

 

 

伊予高須賀家の系図で発見出来ているものは、現時点で2つ。いずれも近代に編纂されたものに収録、又は筆写されたもので、残念ながら信憑性には欠けます。

 

①〔川内町誌〕収録の高須賀氏系図

 南方村庄屋高須賀家のものと推測

②〔伊予不動記大系図〕収録の高須賀氏系図 (伊予史談会文庫)

 則之内高須賀家のものと推測。※ただし、昭和14年1月寫(うつし)

 

2つの系図は、 内容が一致しませんが、いずれも清和源氏の子孫とすることや、要点要点でキーワードに類似性はあります。

①は、先祖は源満仲で、のちの堀口備後守堯氏が高須賀の祖とし、高須賀源左衛門堯倫が南方村の初代庄屋とされています。そして、応永2年(1395)熊野神社再建しています。

②は、先祖は木曽義仲とし、年代が抜けていたり、無理やりこじつけたような、疑わしいところもたくさんあります。義仲の子義則が伊勢国の高須賀村(現愛知県中川区)に住んでそれを苗字としたなどともあります。その後、1600年頃より高須賀季張が、則之内村に住んだとあります。

 

個人的な見解ですが、①の堯倫が南方村に住み庄屋となった頃より、高須賀を名乗るようになったと考えています。

 

 

東温市牛渕に「浮島神社」があります。平野にもかかわらず、なぜ「浮島神社」なのか? それは下記絵図を見ると明白です。

『所蔵地図データベース』松山道後を中心とせる名所交通圖繪 (1927年、昭和2年)より

 

f:id:kyotomichi:20180826171747j:plain

f:id:kyotomichi:20180826171801j:plain

地図の右側が南になります。浮島神社がある場所は、当時の重信川(昔は伊予川)の中洲にご鎮座されていることがわかります。島に浮いているから浮島神社なのです。

 

f:id:kyotomichi:20180826172353j:plain

さらに、浮島神社から数キロ先の上流にも中洲があります。地図には川上と書いてあり、左上には金毘羅寺(河之内名超)が見えます。右上が高知にあたるので、中州は、現在の東温市南方のあたりで、まさに高須賀一族が住んだ場所になります。ちなみに須賀・州賀は、砂処・州処のことで、砂地から来ています。つまり、中洲の上流にあったので高洲と呼び、高州賀→高須賀と書くようになったのではないでしょうか?

 

愛媛旅行①の川上神社にも書きましたが、応永中(1394~1428)、高須賀堯倫は河野家に仕え、南方村庄屋を命じられ、その子堯基が庄屋となりました。そして河野家より、祈願所川上稲荷五社大明神(当神社)の社の守を命じられました。

この時に川上神社周辺の則之内村にも住むようになったと考えるのが自然じゃないでしょうか。

 

そう考えると、南方村の熊野神社は、高須賀の先祖とゆかりも深いことになります。上の地図には記載はないですが、伊勢国熊野神社と同様に中洲に作ったと思われます。

三島神社から、こちらも車ですぐのところにありました。

 

f:id:kyotomichi:20180826164156j:plain

『川内町誌 第一部川上』P260

熊野神社(南方) 

大字南方字竹ノ鼻

(境内神社、高木神社、素鵞神社、奈良原神社、和霊神社加藤神社、寒神社)

祭神 速玉男命、伊弉冉命事解男命菊理姫

 

由緒 応永2年(1395)9月17日、南方圧屋高須賀堯倫、紀州熊野神社から之を勧請して竹の鼻に祀り、産土神とする。その後熊野神社と号した。明治4年に他へ合祀されたものの、旧氏子70余戸の請願によって復旧再興された。『浮島神社の社誌』によると、竹の鼻、高木山、上福寺を熊野三所権現という。

f:id:kyotomichi:20180826174547j:plain

明治15年1月に復旧再興され、130年たって社殿が老朽化が激しく、

平成20年に造営されました。そのため新しいです。

f:id:kyotomichi:20180826175009j:plain

これによると境内神社は、平成20年10月に本殿に合祀されたのですね。

f:id:kyotomichi:20180826175254j:plain

前の瓦が石垣のところに置かれていました。

河野家の家紋ですね。

f:id:kyotomichi:20180826175409j:plain

ちなみに今のは八咫烏に変わっていました。

f:id:kyotomichi:20180826181114j:plain

f:id:kyotomichi:20180826175533j:plain

本殿

何もなくてかなりさみしい・・。

f:id:kyotomichi:20180826181152j:plain

扁額は、熊埜神社と書かれていました。

f:id:kyotomichi:20180826181249j:plain

f:id:kyotomichi:20180826181309j:plain

f:id:kyotomichi:20180826175610j:plain

玉垣

金百圓 福岡市 高須賀嘉太郎

金五十圓 別府市 高須賀孟

     ●田市 高須賀玉光

金三拾圓 朝鮮 高須賀満政

地方からの寄付があったのですね。

復興された明治15年頃と推測します。

f:id:kyotomichi:20180826181034j:plain

こちらは鳥居寄御芳名録とあります。

金五拾円 高須賀万平、高須賀兵蔵、高須賀為吉

金三拾円 高須賀菊次郎、高須賀卯三郎、高須賀冬雄

金五拾円 高須賀甚作、高須賀●三郎、

金拾五円 高須賀重郎、

金拾円 高須賀ミネ、高須賀清三郎、高須賀玉光、高須賀亀吉、高須賀直市

金八円 高須賀幾次

金七円 高須賀次平

金六円 高須賀安吉

金五円 高須賀吉重郎、高須賀貞常、高須賀兵四朗、高須賀廣太、高須賀八太郎、

    高須賀仙吉、高須賀勝三郎、高須賀仁三郎、河野喜三郎

金三円 高須賀●次郎

金二円 高須賀久美、高須賀源四朗、高須賀宇三郎

金壱円五十銭 高須賀儀一

金壱円 高須賀光雄、高須賀寅吉、高須賀久吉

 

書きだしただけでも、高須賀家多いですね。

f:id:kyotomichi:20180826182455j:plain

裏にも、高須賀亀吉の名が読めました。

 

少し則之内から離れているからでしょうか。

やはり先祖に関係のある名前は見当たりませんでした。

 

 

ところで、地図を見ていると、

伊勢国熊野神社南方の熊野神社と平行線に並んでいるようだったので、

緯度経度を調べてみました。

https://user.numazu-ct.ac.jp/~tsato/webmap/sphere/coordinates/

 

伊勢国熊野本宮大社

北緯33度50分28秒

東経135度46分26秒

 

南方熊野神社

北緯33度47分46秒

経度132度54分6秒

 

若干ずれていますが近いです。

 

則之内三島神社

北緯33度47分40秒

経度132度54分54秒

 

全く同じですね。

神社を調べたら、もっと何かありそうな気がしています。