京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

自分のルーツを辿る6 愛媛旅行⑤ 久米郡鷹ノ子村 遍路石

浄土寺の方から線路を渡って、南へ行くと、まず見えてきた石碑がこれです。

事前に遍路石に景浦の名前があることは知っていたので、見に行きました。

 

f:id:kyotomichi:20180826205456j:plainf:id:kyotomichi:20180826205527j:plain

f:id:kyotomichi:20180826205552j:plainf:id:kyotomichi:20180826205636j:plain

左 へんろみち 、すぐこんぴらみ(ちは地中?)、國中 家内安全 

嘉永二年(=1849) 助力当村中 世話人 景浦幸兵衛 

 

讃岐街道まで南下して、西へ向かいます。

f:id:kyotomichi:20180826205722j:plain

松山市鷹子町24番地 久米小学校の北

このあたりに四国遍路石訳1000基の中でも、一番立派だという遍路石があります。

f:id:kyotomichi:20180826205756j:plainf:id:kyotomichi:20180826205822j:plain

南を指さした指型(西林寺方面) きゃくへんろ道(逆遍路道

文久二年戌三月(=1862) 為村中安全冥加

その下に 世話人 景浦幸兵衛

 

指型 みきへんろ道(右遍路道

f:id:kyotomichi:20180826205910j:plain

道法 松山札之辻 二里、三津浜 三里、道後湯之町 一里、久万町 六里、来見 六里、郡中 三里

施主 乃万与三衛門、同七郎衛門、三好嘉右衛門、荻山平左ヱ門、景浦幸兵衛

 

名前が2つもあり、施主の最後に名を連ねていることから、このあたりの権力者だったと思われます。

時代としては、曽祖父の母(景浦卒平の次女/1946年生)の頃です。

戒能助次郎は、もし今と番地が同じであれば、この小学校の東側あたりに住んでいたことになります。

景浦卒平については何もわからないので、何か情報が見つかってほしいものです。


 

さて、今度は北上して、日尾八幡神社を目指します。

f:id:kyotomichi:20180826210000j:plain

これは通り道にあったもので、一角にぽつんと小さな祠がありました。

手前に柱があり門があったのかもしれません。

景浦とは関係ありませんが、気になったので見てみました。

f:id:kyotomichi:20180826210039j:plainf:id:kyotomichi:20180826211247j:plain

西面:従金毘羅大門二十九里

北面:久米郡古川村

f:id:kyotomichi:20180826211320j:plainf:id:kyotomichi:20180826211341j:plain

東面:読めず・・

南面:文化十酉十月吉日(=1813 癸酉)

 

この3つの中では一番古い石碑でした。

このあたりは古川村だったのですね。

 

 

現在の鷹ノ子町は、赤のラインになり、遍路石があるところまでですね。

 

鷹ノ子の先祖については、やはり『久米村誌』『久米村誌資料集』『久米郷土誌』を見ないとこれ以上はわからない気がしました。古本屋でも買えるようですが、見ると8000円もしました^^; 図書館で読むには時間がかかりそうだし・・東温市のようにデータで見れたらよいのになぁ。

愛媛県大学付属図書館地域資料に所蔵されています。1965年編纂だから新しいけど、聞き取りして作成しているもの、と思いたい。

愛媛在住の方で、同様に先祖を調べていて、ご協力いただける方がいたらうれしいです。