浄土寺の方から線路を渡って、南へ行くと、まず見えてきた石碑がこれです。
事前に遍路石に景浦の名前があることは知っていたので、見に行きました。
左 へんろみち 、すぐこんぴらみ(ちは地中?)、國中 家内安全
讃岐街道まで南下して、西へ向かいます。
松山市鷹子町24番地 久米小学校の北
このあたりに四国遍路石訳1000基の中でも、一番立派だという遍路石があります。
文久二年戌三月(=1862) 為村中安全冥加
その下に 世話人 景浦幸兵衛
指型 みきへんろ道(右遍路道)
道法 松山札之辻 二里、三津浜 三里、道後湯之町 一里、久万町 六里、来見 六里、郡中 三里
施主 乃万与三衛門、同七郎衛門、三好嘉右衛門、荻山平左ヱ門、景浦幸兵衛
名前が2つもあり、施主の最後に名を連ねていることから、このあたりの権力者だったと思われます。
時代としては、曽祖父の母(景浦卒平の次女/1946年生)の頃です。
戒能助次郎は、もし今と番地が同じであれば、この小学校の東側あたりに住んでいたことになります。
景浦卒平については何もわからないので、何か情報が見つかってほしいものです。
さて、今度は北上して、日尾八幡神社を目指します。
これは通り道にあったもので、一角にぽつんと小さな祠がありました。
手前に柱があり門があったのかもしれません。
景浦とは関係ありませんが、気になったので見てみました。
西面:従金毘羅大門二十九里
北面:久米郡古川村
東面:読めず・・
南面:文化十酉十月吉日(=1813 癸酉)
この3つの中では一番古い石碑でした。
このあたりは古川村だったのですね。
現在の鷹ノ子町は、赤のラインになり、遍路石があるところまでですね。
鷹ノ子の先祖については、やはり『久米村誌』『久米村誌資料集』『久米郷土誌』を見ないとこれ以上はわからない気がしました。古本屋でも買えるようですが、見ると8000円もしました^^; 図書館で読むには時間がかかりそうだし・・東温市のようにデータで見れたらよいのになぁ。
愛媛県大学付属図書館地域資料に所蔵されています。1965年編纂だから新しいけど、聞き取りして作成しているもの、と思いたい。
愛媛在住の方で、同様に先祖を調べていて、ご協力いただける方がいたらうれしいです。