京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

自分のルーツを辿る10 愛媛旅行⑨ 松山市 湯築城周辺、宇佐八幡神社

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湯築城跡は、室町時代伊予国守護であった河野(こうの)氏の城跡で、当時伊予国の政治の中心地でした。

河野氏は、風早郡河野郷(旧北条市)を本拠地とした豪族で、12世紀末の源平合戦で源氏方として活躍し、鎌倉時代には伊予国で最も有力な武士になりました。河野氏湯築城に本拠を移したのは、14世紀前半河野通盛(みちもり)の時と言われています。その後河野氏の歴代当主が伊予国守護に任命されるなど、政治的な中心としても栄えるようになりました。河野氏は水軍としても知られ、海賊衆として有名な来島村上氏もその配下でした。

 湯築城は、はじめはいざという時に丘陵を城として利用するだけでしたが16世紀半ばになり河野通直(みちなお)が、外堀を堀り、その土で土塁を築いて、現在のような大規模な城となりました。戦国時代に平地の岡を二重の堀と土塁で囲った城は全国でも大変珍しいものでした。

天正13年(1585)に、豊臣秀吉に攻められ河野氏は降伏し、湯築城もまもなく廃城になったといわれています。江戸時代は松山藩が管理し、一般の人が立ち入ることは制限されていました。明治時代に入り、1888年に「道後公園」という名で一般に開放されるようになりました。

1988年から12年間発掘調査が行われ、25万点にも及ぶ土器類が出土し、戦国時代の遺構が良好な状態で残っていることが確認され、歴史上重要な遺跡として2002年に国の指定に指定されました。

湯築城の規模は、外堀を含め南北屋久350m、東西約300mで、広さは屋久8.5haあります。中心は標高差31mの小高い丘陵で、「本壇」「杉の壇」と呼ばれる平坦地があり、もっとも高い本壇からは、松山城や遠く伊予灘を見ることができます。城の南東側は上級武士の生活の場、南西側は城主に仕える武士が暮らす場所だったことがわかっています。」

1948年には愛媛県立道後動物園となりましたが、1988年に伊予郡砥部町とべ動物園に移転され、跡地は道後公園となりました。

 

河野家の家臣団であった戒能も、この地にゆかりがあったとされ、「戒能筋」「戒能谷」「戒能川」と呼ばれるところがありました。 

それをひとつずつ見ていきたいと思います。

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伊予湯築古城之図

この右下に戒能筋というのがあります。

左が北になるので、実際はこの場所になります。

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この辺りに戒能家の屋敷があったのだと思われます。南西側は城主に仕える武士が暮らす場所だった、というのにも当てはまりますね。

 

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 現在はこんな感じになっていました。

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まっすぐ西にいくと、宇佐八幡神社があります。

八幡様といえば源氏が信仰した神社。

河野家も戒能家も同様に信仰したと思われます。

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こちらは新しそうですね。

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変わった形の石燈籠ですね。戦火で歪んだのでしょうか?

奉燈 とあり、下には町●安全とも書いていました。

墨?のところは店と読めました。その右が金。

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大正・・とも読めそうです。

 

また、ある資料に下記記載がありました。

〈明治三七年(1904)版「松山道後案内」大正一五年(1926)版「道後温泉誌」では、義安寺谷でなく戒能谷と記載されている。宝厳寺から石手寺へ至る中間辺りに位置する。〉

これは残念ながら、公開されていないため見ることはできませんでした。

ただ、文章からこのあたりだと思われます。

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 また、『平成19年3月度例会講和要旨   講師 田中弘道 講話 湯築城下町、湯之町と寺井内川水系』というものに、下記記載がありました。

<明治期の地形図からは、道後周辺の石手川扇状地に二本の古い川の跡が認められる。現・樋又川と湯築丘陵南を流れていた「戒能川」である。(略)江戸中期以前に人為的に改変され、「寺井内川水系」が作られ、戒能川が消滅した。」

 

『 愛媛県行政資料 (藩政期・明治期地図)』 というのがあり、

ここで明治期の地図を見ることができます。

 

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丸印辺りが、湯築城あたりとなります。

確かにこのあたりに川が流れていたことがわかります。

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今の地図で見るとこんな感じでしょうか。

こうしてみると、湯築城の背後には山、周囲は川に囲まれ、防衛に向いた場所だったわけですね。

(なんとなく道の流れから、湯築城の北側を流れていたのを、南側に変えたようにも見えますが・・)

 

そしてその大切な場所に、戒能筋、戒能川、戒能谷という名前がつけられ、いかに河野家にとって戒能家が信頼できる側近であったか、ということも考えられます。

 

もしかしたら逆で、戒能という名のあるところに住んだから戒能と名乗るようになったのかもしれませんね。