藤森祭は、菖蒲の節句発祥の祭りとしても知られ、家に飾られる武者人形に藤森の神が宿るとされています。
平安時代(863年)、清和天皇の勅命による「深草貞観の祭」を起源とし、武者行列や駈馬神事が行われます。
(あとで菖蒲見ようと思っていたのに、人込みで忘れてしまった・・)
藤森神社についてはこちら。
藤森祭のスケジュール
4月29日 神輿出し
5月3日 御魂遷し、藤森太鼓奉納、神輿担ぎ
5月4日 宵宮祭
5月5日 神幸祭
還幸祭はないんですね。
ということで、9時半頃に伏見稲荷へ到着。
なぜ藤森祭なのに、伏見稲荷?と思われるかもしれません。
もともと伏見稲荷の場所は藤森神社の土地だったこともあって、
昭和7年までは「土地返せ」と言いながら境内に入っていたそうです。
そして稲荷側は、「神様お留守」と返したとか。
このやり取り見たかったですね。
10時過ぎ、まずは鼓笛隊がやってきます。
藤森神社 神役
そして武者行列が続きます。
朝渡(あさわたり)
早良親王が陸奥国で反乱がおこったときに藤森神社で戦勝祈願して出陣した際の軍装。
皇馬(こんま)
佛殿(ほって)
(どうせならここに神功皇后を入れてほしい・・)
うーん、違いが分かりづらいですね。
本来七福神もあるようですが、いなかったです。
滝尾神社の剣鉾
滝尾神社は東福寺の近くにある神社です。
藤森神社の境外末社で、江戸時代には「多郷社」と称し、藤森神社の御旅所となっていました。
祇園祭の大船鉾の龍頭のモチーフになったところですね。
剣鉾なので、神輿が通る前に厄を集めるという祇園祭の鉾と同じ役割でしょう。
続いて神役の車には菖蒲の花が載っていました。
(鼓笛隊のバスとともにいったん南側の駐車場で待機していた)
そして10時45分。
先ほどの鼓笛隊、武者行列が出てきました。
この時に剣鉾が鉾差をしてびっくり。
もうないのかと思いました・・。
かろうじて見れましたが、移動できないので待機。
入れ替わるように、今度は神職が馬に乗ってやってきました。
女神輿
藤森太鼓
深草郷
東福寺郷
宮本下之郷
そして3基の神輿が、稲荷大社の末社「藤尾社」に鎮座されました。
祭神は舎人親王です。
この場所はもともと藤尾と呼ばれる地で、「藤尾社」がありました。
816年に空海がこの土地を請い稲荷社を造営したために、藤尾社は深草へ遷座して祀られたのです。(追いやられたともいう・・)これが今の藤森神社の東座(下記)にあたります。
今の「藤尾社」は、延宝8年(1680)に天皇塚の崩れた跡に小舎を新築されたものです。
神輿は左(西)から深草郷、東福寺上ノ郷、宮本下ノ郷となっています。
これはおそらく藤森神社の祭神の並びと同じになっているのでしょう。
つまり、
西座:早良親王(さわらしんのう)、伊豫親王(いよしんのう)、井上内親王(いのうえないしんのう)
中座:素盞鳴命(すさのおのみこと)、別雷命(わけいかずちのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、応神天皇(おうじんてんのう)、仁徳天皇(にんとくてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう)、武内宿禰(たけのうちのすくね)
東座:舎人親王(とねりしんのう)、天武天皇(てんむてんのう)
そして早良親王は、舎人親王の従弟の孫にあたります。(遠い・・)
ってことで、藤森祭は、3つの祭りが一緒になっているんでしょうね。
合祀しまくっているので、とってもややこしいというか複雑・・。
①「土地返せー」っていう東座の祭
②早良親王は藤原種継暗殺を企てたと疑われて幽閉され、絶食して亡くなった。怨霊のたたりを恐れ、その怒りを鎮めるための東方征伐を称える西座の祭
③主祭神である素戔嗚尊の霊を鎮める中座の祭(&神功皇后を称える祭)
素戔嗚尊についてはこちらをどうぞ。
さて、11時過ぎより神事が行われます。
この間は撮影禁止です。
東側(右)が藤森神社、西側(左)は行列にいず鳥居前で待っていたので稲荷大社の神職でしょう。
これを見ると、稲荷大社より藤森神社の方が格が上のような感じがしました。
お祓いのあと祝詞が上げられたあと、お互いに挨拶されていました。
5月3日の稲荷大社の還幸祭では、東寺の東門前で東寺の僧侶から読経を受けるので、この神仏の関係性が面白くて興味深いですね。
お互いにあいさつ回りをしているみたいです。
15分ほどで神事は終わり、神輿も早々に立ち去るんですね~。
帰りは剣鉾を差しているところを目の前で見たいと思いましたが、
神輿の周囲にいないから、剣鉾どこー?と探し回りました。
宮本下ノ郷、東福寺郷の神輿が出てから、剣鉾が来ました。
なぜ神輿の先導ではないのだろうと思ったら、
滝尾神社が東福寺郷に位置することから、
2003年から東福寺郷の神幸列を先導するようになったからだそうな。
でも・・先導してないよね^^;
いろいろ思うところはありつつ、②へ続く。