京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

自分のルーツを辿る12 愛媛旅行⑪ 松山市 湯築城跡Ⅱ

f:id:kyotomichi:20180901140702j:plain

f:id:kyotomichi:20180901140720j:plain

岩崎神社(松山市

祭神:白人明神小千命、河野家累代の霊、土居備中守の霊、得能備後守の霊

建長年中 別府弥七朗●(米に秀)創祀

貞亨2年 道後温泉閉塞、里人相談し神楽を奏す。

     霊験をえて再び報賽の神楽を奏す。

元禄年中 安田氏 心願により改築

享保20年 里人拝殿を再建す

 

 

 『愛媛 CATV 岩崎権現』より

「岩崎権現」や「道後の岩崎さん」とも呼ばれている。道後公園=湯月城跡は、建武年間(1334~41)河野通盛が築城した。当時、庭の一隅に小祠を建てたのが始まりだという。神社が庭の端にあるから「庭先神社」、これが訛って「岩崎神社」のいうのが社号の起こりという。  昔、東堀の土手には竹薮があり、春先の竹の子を、ある男が堀りにきた。竹の子堀りにきておかしなことに眠気がさしてきた。そばの木の根元に座り、腰の煙草入れから煙草を出して一服吸い、吸殻をぽんと木の根にはたいた。すると木の根がぐらりとゆらいで、よく見るとそれは大きな蛇であった。その蛇の長さは、ずっと義安寺まであったという。 男はそれっきり気を失って大蛇に飲まれて死んでしまった。そのあともこの大蛇に飲まれて死んだ者は何人もあったという。 村人はほとほと困り神社を建立し蛇が暴れないように祈願した。やがて大蛇は暴れなくなり、岩崎神社はこの蛇を祀っているという。河野氏の祖である小千命は白人明神と崇敬され、俗に「白蛇」と言われ、この小千命が祀られている。そのほか河野家代々の霊、その後土居通増、得能通綱(星が岡の戦いで有名な南北朝時代の勇将)も祭神として加え祀られている。  元禄15年(1702)、竹奉行安田又之允源義行が、神霊を古城の南で拾って岩崎大権現を再興したという。 祭神が蛇なので卵が奉納されることもあり、信心すれば脳、神経痛に効くと言われる。9月14日、15日が例祭である。

 

 こういった伝承にも意味はあります。

竹=筒=ツツ=蛇のことになります。

そして祀られている土居、得能(とくのう)は共に河野氏の支流(予州)になります。

河野宗家と予州は、長い間争いが絶えなかったと言われています。

湯築城の築城者と伝わる河野通盛(宗家)は、延元元年(1336)足利尊氏後醍醐天皇に反旗を昼がした際に、足利方(北朝)につきます。一方予州は南朝後醍醐天皇)につきます。土居通増と得能通綱もともに後醍醐天皇に味方しますが戦死します。

その後も、宗家河野通久(通義の子)と予州河野通元(通義の弟通之の子)との家督争いが続き、通久の子・教通と通元の子・通春の代になると家臣団を二分して争いが激化していきます。

 

大蛇の長さが義安寺まであった・・・というのは、この予州の軍がそのあたりまであったということではないでしょうか?

その抗争で亡くなった河野家家臣のために、そして二度と反乱がおきないように、と祀ったのではないでしょうか。 

ちなみに煙草は江戸時代16世紀末以降に輸入されたもので、河野家が降伏して湯築城を手放した1585年にもないので、些細なことから合戦にまで発展したことが、その後話に尾ひれがついたものと思われます。

 

また、蛇=大物主神(おおものぬしのかみ)=天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)=物部氏の先祖

そして念のため確認、社殿は東を向いていました!まさにアマテルさんだー♫

 

そして、物部氏の一族である小致命(おちのみこと)が越智・河野の先祖になるので、繋がりますね。

詳しく気になる方はこちらもどうぞ。

 

 

 

f:id:kyotomichi:20180901142017j:plain

河野区城址碑  昭和16年11月建

 

まだ新しいですね。読めるところだけ^^;

河野氏元越智氏 孝霊天皇の*乎致命に出つと****應

天皇の朝伊豫小市國造に任せらる後*居を河野郷に遷

し以て氏とし高縄城に*り治を伊豫に布く承久の乱河野

通信義兵を京畿に出して精忠を挿んで元寇の役伊豫水軍

の師河野通有進撃不逞を戮して困難を救ふまた清僧一遍

出てて時宗を開き聖教洵に萬世に薫る建武中興には土居

通増得能通綱支族より出でて向公の忠節に殉す後更に居

を道後に遷し湯月城を築く河野通直の時に至り豊臣氏

攻むる所となりて滅ぶ時に天正十三年九月正に六十余代

千三百有餘年也亦偉なりと謂ふ*し項曰慈光曾教王座覚

尼この祖地に巡錫し轉その桑海の変を悼む同信相寄り慈(下、心なし)

にこの碑を建立し以て世に河野氏の遺績を得*」

f:id:kyotomichi:20180901154016j:plainf:id:kyotomichi:20180901154041j:plain

f:id:kyotomichi:20180901154056j:plain

新しいですが、河野家の家紋がありました。

ただ、敵対した宗家と支流を一緒に祀ることもないと思うので、

支流の方の河野家と思われます。

f:id:kyotomichi:20180901154133j:plain

 

f:id:kyotomichi:20180901154202j:plain

f:id:kyotomichi:20180901154240j:plain

 石造 湯釜

現在の道後温泉本館ができた明治27年(1894)まで使用されていたもの。

直系166.7cm、高さ157.6cm、花崗岩製。奈良時代天正勝宝年間(749-757)につくられたと伝えられています。

湯釜上部に置かれた宝珠の「南無阿弥陀仏」の六字は、河野通有の依頼により一遍上人が刻んだものといわれています。

湯釜本体には温泉の効験に関する文が刻まれており、天徳寺の徳王禅師の撰文になるもので、享禄4年(1531)河野通直が石工を尾道から招いて刻ませたものになります。

 

これもブラタモリでやっていましたね。

f:id:kyotomichi:20180901154737j:plainf:id:kyotomichi:20180901155304j:plain

(左)

天平勝宝元年平智宿禰

**僧*基相謀初而湯

釜設享禄四年河野太郎

通直之修営明治二十七

(右)

宝珠型*六字一遍上人

 

f:id:kyotomichi:20180901155413j:plain

f:id:kyotomichi:20180901155457j:plain

f:id:kyotomichi:20180901155611j:plain

**温泉碑

f:id:kyotomichi:20180901155730j:plain

f:id:kyotomichi:20180901155909j:plain

f:id:kyotomichi:20180901155808j:plain

f:id:kyotomichi:20180901155851j:plain

f:id:kyotomichi:20180901155834j:plain

小林一茶正岡子規夏目漱石の句碑もありました。

 

いつも車で公園前を通る時に気になって気になってしかたなかったので、

ようやくこれてよかったです。

ただ悔いは・・叔母がばててたので、山の上まで上がれなかったこと。

やはりこういうのは一人出回る方が良いかもですね。

 

自分のルーツを辿る11 愛媛旅行⑩ 松山市 湯築城跡Ⅰ

さて、いよいよ湯築城内に入ります!

f:id:kyotomichi:20180901130707j:plain

搦手門(からめてもん) 

※この写真は城内から外を撮影。前のページに外から撮影したものを掲載しています。

城の裏門になります。河野時代にはどう呼ばれていたかは不明。

江戸時代に書かれた『予陽郡郷俚諺集(よようぐんごうりげんしゅう)』に「東西に門有、城は東表也」と書かれているそうです。

二つの段階の門があり、外堀が薬2mの水路によって続いていた時期は、木橋が掛けられていたようですが、後に水路は埋め立てられ土橋になっています。

門も内側に後退して建てられています。

f:id:kyotomichi:20180901131316j:plain

まずは、湯築城資料館へ。

再現模型・・萌えますw

f:id:kyotomichi:20180901131922j:plain

河野氏湯築城の年表

f:id:kyotomichi:20180901132521j:plain

戒能もこの家臣団居住区に住んでいたのでしょうね。

 

f:id:kyotomichi:20180901132004j:plain

発掘調査で出土した遺跡

・座敷飾りとして使われた陶磁器

城の年代より200年以上も古い骨董的価値のある「秘色青磁(ひそくせいじ)」と呼ばれ評価の高い高麗青磁などがあります。

f:id:kyotomichi:20180901132947j:plain

道後地区には、縄文時代以降多くの遺跡が分布。

城内の発掘調査でも下層から弥生時代や古代の遺構。遺物が出土しています。

f:id:kyotomichi:20180901132730j:plain

猫の足跡のある皿

かわいすぎます・・。

これは丘陵西側からまとまって出土したものの1点。製作の過程で偶然足跡がついたと推定されていますが、城内から出土したということは、製品として持ち込まれ使用されていたと考えられます。

 

f:id:kyotomichi:20180901133211j:plainf:id:kyotomichi:20180901133152j:plain

f:id:kyotomichi:20180901133307j:plain

f:id:kyotomichi:20180901133333j:plain

f:id:kyotomichi:20180901133447j:plain

f:id:kyotomichi:20180901133837j:plainf:id:kyotomichi:20180901133502j:plainf:id:kyotomichi:20180901133701j:plain

お茶に関わる道具も多数出土しています。

このころの食生活にも興味津々なので、とても興味深いです。

f:id:kyotomichi:20180901134001j:plain

f:id:kyotomichi:20180901134112j:plain

南側には武家屋敷が再現されていました。

f:id:kyotomichi:20180901134151j:plain

f:id:kyotomichi:20180901134223j:plain

f:id:kyotomichi:20180901134236j:plainf:id:kyotomichi:20180901134329j:plain

f:id:kyotomichi:20180901134416j:plain

f:id:kyotomichi:20180901134500j:plain

f:id:kyotomichi:20180901134515j:plain

円形石積遺構

井戸や便所として使われたのではないかと思われましたが、穴の底は水の湧く層に達していないとか。また便所であれば寄生虫などの卵が必ず発見されるのですが、土を分析しても見つからず、何の目的で作られたのかわからないのだそう。

f:id:kyotomichi:20180901134719j:plain

f:id:kyotomichi:20180901134731j:plain

f:id:kyotomichi:20180901134842j:plain

f:id:kyotomichi:20180901134905j:plain

丘陵部に鍛冶炉があり、鉄製品を生産していたそうです。

f:id:kyotomichi:20180901135158j:plain

f:id:kyotomichi:20180901135359j:plain

土性人形

頭部がないですが、形態から布袋像と推測されています。

f:id:kyotomichi:20180901135525j:plain

砥石

有名な産地は、長崎の大村砥、熊本の天草砥、群馬の沼田砥、愛媛の伊予砥、愛知の名倉砥、京都の鳴滝砥など。

湯築城跡からは、大村砥、伊予砥、鳴滝砥が出土。

f:id:kyotomichi:20180901135733j:plain

f:id:kyotomichi:20180901135814j:plain

f:id:kyotomichi:20180901135844j:plain

銭貨

f:id:kyotomichi:20180901135930j:plain

 

f:id:kyotomichi:20180901140031j:plain

f:id:kyotomichi:20180901140045j:plain

さてここから、上級武士居住区・庭園区です。

f:id:kyotomichi:20180901140123j:plain

f:id:kyotomichi:20180901140236j:plain

f:id:kyotomichi:20180901140252j:plain

f:id:kyotomichi:20180901140314j:plain

土坑(ゴミ捨て穴)

長さ約2.5m、幅2m、深さ0.5m。土師質土器の皿や杯が出土しています。

f:id:kyotomichi:20180901140505j:plain

 

自分のルーツを辿る10 愛媛旅行⑨ 松山市 湯築城周辺、宇佐八幡神社

f:id:kyotomichi:20180901004029j:plain

f:id:kyotomichi:20180901011149j:plain

湯築城跡は、室町時代伊予国守護であった河野(こうの)氏の城跡で、当時伊予国の政治の中心地でした。

河野氏は、風早郡河野郷(旧北条市)を本拠地とした豪族で、12世紀末の源平合戦で源氏方として活躍し、鎌倉時代には伊予国で最も有力な武士になりました。河野氏湯築城に本拠を移したのは、14世紀前半河野通盛(みちもり)の時と言われています。その後河野氏の歴代当主が伊予国守護に任命されるなど、政治的な中心としても栄えるようになりました。河野氏は水軍としても知られ、海賊衆として有名な来島村上氏もその配下でした。

 湯築城は、はじめはいざという時に丘陵を城として利用するだけでしたが16世紀半ばになり河野通直(みちなお)が、外堀を堀り、その土で土塁を築いて、現在のような大規模な城となりました。戦国時代に平地の岡を二重の堀と土塁で囲った城は全国でも大変珍しいものでした。

天正13年(1585)に、豊臣秀吉に攻められ河野氏は降伏し、湯築城もまもなく廃城になったといわれています。江戸時代は松山藩が管理し、一般の人が立ち入ることは制限されていました。明治時代に入り、1888年に「道後公園」という名で一般に開放されるようになりました。

1988年から12年間発掘調査が行われ、25万点にも及ぶ土器類が出土し、戦国時代の遺構が良好な状態で残っていることが確認され、歴史上重要な遺跡として2002年に国の指定に指定されました。

湯築城の規模は、外堀を含め南北屋久350m、東西約300mで、広さは屋久8.5haあります。中心は標高差31mの小高い丘陵で、「本壇」「杉の壇」と呼ばれる平坦地があり、もっとも高い本壇からは、松山城や遠く伊予灘を見ることができます。城の南東側は上級武士の生活の場、南西側は城主に仕える武士が暮らす場所だったことがわかっています。」

1948年には愛媛県立道後動物園となりましたが、1988年に伊予郡砥部町とべ動物園に移転され、跡地は道後公園となりました。

 

河野家の家臣団であった戒能も、この地にゆかりがあったとされ、「戒能筋」「戒能谷」「戒能川」と呼ばれるところがありました。 

それをひとつずつ見ていきたいと思います。

f:id:kyotomichi:20180901004227j:plain

伊予湯築古城之図

この右下に戒能筋というのがあります。

左が北になるので、実際はこの場所になります。

f:id:kyotomichi:20180901005052p:plain

この辺りに戒能家の屋敷があったのだと思われます。南西側は城主に仕える武士が暮らす場所だった、というのにも当てはまりますね。

 

f:id:kyotomichi:20180901103106j:plain

 現在はこんな感じになっていました。

f:id:kyotomichi:20180901103717j:plain

まっすぐ西にいくと、宇佐八幡神社があります。

八幡様といえば源氏が信仰した神社。

河野家も戒能家も同様に信仰したと思われます。

f:id:kyotomichi:20180901103752j:plain

f:id:kyotomichi:20180901103853j:plain

こちらは新しそうですね。

f:id:kyotomichi:20180901103939j:plain

変わった形の石燈籠ですね。戦火で歪んだのでしょうか?

奉燈 とあり、下には町●安全とも書いていました。

墨?のところは店と読めました。その右が金。

f:id:kyotomichi:20180901103926j:plainf:id:kyotomichi:20180901104525j:plain

大正・・とも読めそうです。

 

また、ある資料に下記記載がありました。

〈明治三七年(1904)版「松山道後案内」大正一五年(1926)版「道後温泉誌」では、義安寺谷でなく戒能谷と記載されている。宝厳寺から石手寺へ至る中間辺りに位置する。〉

これは残念ながら、公開されていないため見ることはできませんでした。

ただ、文章からこのあたりだと思われます。

f:id:kyotomichi:20180901005114p:plain

 また、『平成19年3月度例会講和要旨   講師 田中弘道 講話 湯築城下町、湯之町と寺井内川水系』というものに、下記記載がありました。

<明治期の地形図からは、道後周辺の石手川扇状地に二本の古い川の跡が認められる。現・樋又川と湯築丘陵南を流れていた「戒能川」である。(略)江戸中期以前に人為的に改変され、「寺井内川水系」が作られ、戒能川が消滅した。」

 

『 愛媛県行政資料 (藩政期・明治期地図)』 というのがあり、

ここで明治期の地図を見ることができます。

 

f:id:kyotomichi:20180901121558j:plain

丸印辺りが、湯築城あたりとなります。

確かにこのあたりに川が流れていたことがわかります。

f:id:kyotomichi:20180901123823j:plain

今の地図で見るとこんな感じでしょうか。

こうしてみると、湯築城の背後には山、周囲は川に囲まれ、防衛に向いた場所だったわけですね。

(なんとなく道の流れから、湯築城の北側を流れていたのを、南側に変えたようにも見えますが・・)

 

そしてその大切な場所に、戒能筋、戒能川、戒能谷という名前がつけられ、いかに河野家にとって戒能家が信頼できる側近であったか、ということも考えられます。

 

もしかしたら逆で、戒能という名のあるところに住んだから戒能と名乗るようになったのかもしれませんね。

 

 (追記)

f:id:kyotomichi:20200630223247j:plain

愛媛県行政資料(藩政期・明治期)絵図 温泉郡地図地誌付

ここに戒能東・戒能西の地名を見つけました!

f:id:kyotomichi:20200630223645p:plain

場所的には持田町あたりになります。

もう少し湯築城に近いところかと思っていたので、ちょっとびっくりでした。

でも家臣たちは城内に住んでいるでしょうし、おそらく土地をもらって、親戚関係が住んでいたのでしょうね。

 

 

 

自分のルーツを辿る9 愛媛旅行⑧ 松山市 道後温泉

f:id:kyotomichi:20180831225838j:plain

道後温泉駅。レトロでよいですよね~。

道後には親戚もおり、何度も行っていますが、

車で行動していることが多かったので、実はあまりちゃんと見たことはなかった・・。

1度友達と旅行した時くらいかな。なので観光もしつつ。

f:id:kyotomichi:20180831230029j:plain

日本初の軽便鉄道 坊ちゃん列車

f:id:kyotomichi:20180831230800j:plain

からくり時計

f:id:kyotomichi:20180831230821j:plain

放生園(ほうしょうえん) 足湯

「兼務年間(1334-1326)に、伊佐爾波神社が現在のところに移されたとき、境内の御手洗川の引水をたたえて池が作られました。この池は「放生池」といい、聖浄の地とされましたが、現在は埋められてこの公園となっています。

一羽の傷ついた白鷺が湧き出る湯で傷をいやしたのが、道後温泉の始まりだという伝説に基づく足跡の残った「鷺石」や明治24年から昭和29年に使用された「湯釜」などがあります。」

これが湯釜ですね。

-f:id:kyotomichi:20180831231327j:plain

春風や ふね伊豫に寄りて 道後の湯  柳原極堂(1867-1957)

句碑や俳句ポストもありりましたが、鷺石はわかりませんでしたが・・。

f:id:kyotomichi:20180831231729j:plain

f:id:kyotomichi:20180831231756j:plain

朝8時頃です。

f:id:kyotomichi:20180831231826j:plain

椿の湯

昭和28年に増設、昭和59年に白壁土蔵風の新刊に改築されました。

f:id:kyotomichi:20180831231917j:plain

聖徳太子 道後温泉碑 景浦直孝謹書

 

内容はさすがによくわかりませんが・・景浦とな。

父方の先祖戒能助次郎の次男吉次郎は、景浦卒平の次女コマツを嫁に迎えています。

ただ・・それしかわからなくて^^; 

何かゆかりはあるのかなぁ??

この方は、明治8年、現千舟町生まれで、伊予史談会の創設者でした。

f:id:kyotomichi:20180831232536j:plain

聖徳太子

「この碑は、法興6年(516)10月、道後温泉を訪れた聖徳太子が、高麗の僧恵慈と大和の豪族葛城臣を従え、伊予の温泉に遊んだときに、太子は霊妙な温泉に深く感動し、漢文体の文章をつくり、湯の岡のかたわらに建てられたと言われている。

この道後温泉碑は、伊予風土記逸文のなかに載せられ、わが国最古の金石文の一つとして非常に重要視され好者により古くから探索をされているが、今でもその碑は発見されていない」

 

上の石碑の訳かと思ったけど・・漢字を見ていてもちょっと違うような??

 

f:id:kyotomichi:20180831233028j:plain

あまり時間もなかったので、本館に向かいます。

 

f:id:kyotomichi:20180831233517j:plain

本館 重要文化財

「北に神の湯本館、東に又新殿(ゆうしんでん)・霊(たま)の湯棟、南に南棟、西に玄関棟が接続して建つ複雑な構成をもっています。

神の湯本館が明治27年、又新殿・霊の湯が明治32年、南棟及び玄関棟が大正13年の建築で、現在の姿は明治中期から昭和初期にかけて整えられたものになります。

神の湯本館は木造、三層楼で塔屋を設けています。又新殿は天皇や皇族の方々の入浴に備えて建てたもので、浴槽を含めて当初の姿を保持しています。神の湯本館及び又新殿・霊の湯棟は、ともに棟梁坂本又八郎が手がけました。」

f:id:kyotomichi:20180831234036j:plain

先ほどの伝説から白鷺が飾られています。新しそうですが。

f:id:kyotomichi:20180831234134j:plain

本当は又新殿も見学したかったけど、改装前でめちゃ混み・・。

そのためさっと入っただけでした^^;

f:id:kyotomichi:20180831234200j:plain

夏目漱石 坊ちゃん之碑

f:id:kyotomichi:20180831234329j:plain

f:id:kyotomichi:20180831234348j:plain

湯神社

f:id:kyotomichi:20180831234529j:plain

ここからの眺めが好きですw

f:id:kyotomichi:20180831234613j:plain

振鷺閣(しんろかく)の太鼓

日本の音風景100選

 

刻(とき)太鼓として昔は1時間ごとに鳴らされていましたが、現在は朝6時に道後の温泉の開館を知らせるため6回、昼の12時に12回、夕の18時に6回鳴らしています。

f:id:kyotomichi:20180831235018j:plain

屋根を見ると・・

f:id:kyotomichi:20180831234910j:plain

龍がかっこいいです。

f:id:kyotomichi:20180831234948j:plain

こちらは鳥ですね。鳳凰

f:id:kyotomichi:20180831235137j:plain

又新殿(御成門) 全国唯一の皇室専用浴場

f:id:kyotomichi:20180831235439j:plain

玉の石

 

f:id:kyotomichi:20180901000340j:plain

「伊豫の湯の汀(みざわ)にたてる霊(たま)の石

これそ神代のしるし成ける  

                古歌

玉の石の由来は『伊予風土記逸文に見られるが、玉の石を歌ったこの古歌は、本県と中央の俳壇をむすぶ最古の書「白水朗子記行(あまのこのすさび)』(岡西維中 1639-1711)に見える。汀は温泉の水際のこと。」

 

f:id:kyotomichi:20180901000323j:plain

実はこの日は、3月の連休で道後温泉まつりでした!

朝9時から湯祈祷があるので、これも見ようと思っていました。

本当はそのあとの行事も気になったけど、さすがに時間がないので断念。

f:id:kyotomichi:20180831235312j:plain

 

f:id:kyotomichi:20180901000458j:plain

 

f:id:kyotomichi:20180901002053j:plain

f:id:kyotomichi:20180901001626j:plain

f:id:kyotomichi:20180901001651j:plain

f:id:kyotomichi:20180901001733j:plain

神々しくて素敵です。

f:id:kyotomichi:20180901001824j:plain

ふりがなも打ってない・・(笑)

f:id:kyotomichi:20180901001932j:plain

巫女神楽

ここでタイムオーバー・・。泣く泣く戻ります。

f:id:kyotomichi:20180901002000j:plain

天狗さんもいました。

 

 

f:id:kyotomichi:20180901002319j:plain

 マンホールの猫ちゃんがかわいかった。

さて、親戚と合流して、道後公園(元湯築城)へ向かいます。

 

自分のルーツを辿る8 愛媛旅行⑦ 松山市 千舟町、南持田町

f:id:kyotomichi:20180831192648j:plain

父方の曾祖父母、戒能宇三郎とアサノ(旧姓八木)は、1920年頃にこの街に来て、薪炭商をしていました。そしてアサノの弟基一は警官でしたが、同じ頃千舟町に引っ越して骨董商をしはじめました。

※何度も書きますが、戒能はわかりやすくしているだけで、実際は江戸時代に養子に入っており苗字は変わっています。


この千舟町周辺は、1929年(昭和4年)までは小唐人町(ことうじんまち)と呼ばれていました。もともと士族が住んでいた町で、大正初期に川が埋め立てられて、大規模な繁華街へとなっていったようです。

 

 

曾祖父母には会ったことがないので、二人が住んだ町がどんなだったのかなと思いを馳せながら、今回はここでホテルを取って、町をふらふらと歩いてみました。

 

f:id:kyotomichi:20180831220522j:plain

昔の番地が今と変わらなければ、このあたりに住んでいたと思われます。

 

(祖父の自伝より)

「店から奥へ長い土間が続いていて、奥には薪や炭俵を納めた倉庫と仕事場があった。仕事場では薪割りや炭挽きが行われていた。二階は店の上にだけあって、四畳と床の間や押入れのある六畳とから成り、店の帳場から土間を隔てたところに階段があった。店には薪や木炭や豆炭、煉炭などが少し置いてあるだけの土間で、帳場は三畳ほど、それに続いて土間に沿い、六畳、四畳半、台所などがあった。帳場には大抵叔父(宇三郎)が座っており、通いの傭人が二人ほどいて注文があると傭人が品物を届けに行き、叔父自身が出かける事はあまりないようであった。伯母(アサノ)は階下の部屋にいる事もあったが、二階の四畳で頼まれ仕事の縫物をしている事が多かった。伯母は裁縫の名手であった。」

 

1950年代までは、炊事や風呂などは薪を利用していていました。そういう時代だったからこその商売だったのでしょうね。

f:id:kyotomichi:20180831222747j:plain

次の日の朝です。

f:id:kyotomichi:20180831222814j:plain

なんだかかわいいw

f:id:kyotomichi:20180831222844j:plain

千舟町通りを東へ行くと、勝山通り沿いに、

八坂神社があったので見てみました。

 

f:id:kyotomichi:20180831222917j:plain

f:id:kyotomichi:20180831222948j:plain

鳥居には、大正7年(1918年)とありました。

ちょうど祖父母がいたころなので、もしかしたら参拝にきたかもしれませんね。

f:id:kyotomichi:20180831223530j:plain

勝山通りを北上していくと、市電が走っています。

今はここを曲がっていますが、昔は東側のカーブの道を走っていました。

f:id:kyotomichi:20180831223759j:plain

今はマンションになっていますが、この右側あたりですね。

地図を見るとよくわかります。

 

ん・・?

なんか見覚えあるような・・と記憶を辿ると、ブラタモリでやっていましたね(笑)

 

実はそれ目的ではなく、母方の曽祖父の八木隣吉は、子供たちにちゃんとした教育を受けさせたいと、1925年に井内村から松山市築山町に引っ越しました。そこで米屋をしつつ、持田の農事試験場の前に貸家を四軒建てました。それがこの三角コーナーあたりだったのです。家賃何度も踏み倒されて手放したようですが^^;

道後に行く通り道だったので寄ってみました。