京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

旧本能寺跡、信長茶寮

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1582年、織田信長明智光秀に襲われ、自害・焼失した本能寺。

寺町御池にある本能寺の場所とは違っていました。

これは、中京区小川通蛸薬師元本能寺町にあります。

 

西洞院通の二本西側の油小路通です。

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案内板によると、

「本能寺跡記

応永22年(1415)御開山日隆聖人は本門八品の正義を弘通せんがため、油小路高辻と五条坊門の間に一寺を建立して「本応寺」と号されたが、後に破却された、永享元年(1429)小袖屋宗句の外護により町端に再建、次いで永享5年(1433)如意王丸の発願により、六角大宮に広大な寺地を得て移転再建。本門八品能弘の大霊場として「本能寺」と改称された。
その後、天文5年(1536)天文法乱によって焼失、天文14年(1545)第八世伏見宮日承王上人によって旧地より四条西洞院の此の地に移転、壮大なる堂宇の再興をみた。然るに天正10年(1582)彼の「本能寺の変」によって織田信長とともに炎上、天正17年(1589)、この地に再建せんとし、上棟式の当日、豊臣秀吉より鴨川村(現在の寺町御池)の地に移転を命ぜられる。一山の大衆声を放って号涙つと。因みに本能寺は度々の火災に罹りたるをもって「ヒヒ」と重るを忌み、能の寺を特に「能(右側が去)」と書くのが慣わしである。」  

 

本能寺跡の石碑はもうひとつあります。

蛸薬師・小川通の角です。元本能寺町南町の老人ホームのところになります。

前に写真を撮っているはずなんだけど・・後回しにしているうちにどこにいったやら?? また見つけたら(もしくは撮りなおしたら)追加したいと思います。

 

 

 

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この近くには、信長茶寮がオープンしたので行ってみました。

信長と酒を酌み交わすというコンセプトで作られたそうな。

(残念ながら2017年8月31日で閉館)

 

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地下1Fには慰霊碑もあります。

流れる水の台座の上に立ち、静かな時間が過ぎていきます。