京の花街のひとつ、島原へやってきました。
このあたりの雰囲気もいいですよねー。
ほとんど誰も見かけませんが^^;
東鴻臚館址
大門からまっすぐ西つきあたりにあります。
「平安時代、京の中央を南北に朱雀大路が貫き、その七条以北の東西にふたつの鴻臚館が設けられていたが、この島原付近は東鴻臚館址にあたる。当時この館を利用したのは唐ではなく、渤海国の施設に限られた。時の政府は渤海客を大いに歓待し、日本の国威を示すために林邑楽を演奏したり、詩文の会などを催していたが、延喜20年(920)頃には廃せられた。そうした由緒ある顕客接待の場が、江戸時代の島原にもてなしの文化の場としてよみがえったことは意味深いことといえる。」
石碑は新しいけど・・
この付近は江戸時代の「京の七口」のひとつ丹波口で、当時の京都には都市全体を囲む御土居堀があり、町奉行所はその出入口など約30か所に標石をたてました。
ここから東が洛中になります。
東に対して、西鴻臚館址は石碑ではなく看板のみでした。
『平安大辞典』より平安京条坊図
この本は平安京を知る上でもかなり勉強になります!
こちらはついでに。七条新千本通近くにあります。
御旅所でも90度曲がるんですね。
橋みたいになっていて、なんだか不思議です。
七条七本松あたりにある権現寺。
ここには源為義公のお墓があります。
源義家-義親-為義-義朝-頼朝
ということで、頼朝の祖父にあたります。
義家ゆかりはこちら。
突き当りがお寺ですが、お墓は手前の右手にあります。
為義は,保元の乱で崇徳上皇方として戦いますが敗北し、後白河天皇側についた長男の義朝の手で処刑されました。
保元物語では、義朝の部下である鎌田正清と波多野義通によって七条朱雀で切られ、圓覚寺に埋葬されたとあるそうです。
供養塔は、寺伝によれば『当山(祇陀林寺)中輿(1596)のはるか昔より、丹波街道(七条通)を挟んだ北側には、源為義公の墓があった。現在の五輪塔は、貞享3年(1686)の為義の年季法要に際し、再整備したものである』とのこと。
明治45年(1912)京都駅操作場の拡張工事に伴って、現在の中央卸売市場(京都市下京区朱雀堂ノ口町)から現在の地へ移設されました。その際に五輪塔の下から水輪などの石塔の一部が見つかり、水輪を積み重ねるなど現在のような姿にしたそうです。