『延喜式』には、鴨河合坐小社神社(かものかわいにいますおこそやけのじんじゃ)とも書かれています。ちょうど賀茂川と高野川の合流地点に鎮座するため、河合神社と呼ばれます。
総門
本殿
下賀茂神社の延宝7年(1699)式年遷宮の古殿社を修造したもの。
玉依姫命は、玉のように美しいことから美麗の神としても知られています。
『古事記』によると、
海神、綿津見神(わたつみのかみ)には、娘が二人いました。姉を豊玉毘売(とよたまびめ)、妹を玉依毘売(たまよりびめ)といいました。海神国で天の神火遠理命(ほおりのみこと)と結婚し、身ごもった豊玉毘売は、火遠理命のもとに向かいました。火遠理命は妻のために産屋をつくり、屋根を鵜の羽で葺きました。そして、いよいよお産がはじまるというときに、火遠理命に「他国のものは、出産するときに本国の姿に戻ります。どうかその間は絶対に見ないでください」
でも、火遠理命は約束を破って、産屋を覗いてしまいます。そこには、大きなワニとなった妻が身をくねらせていたのです。火遠理命は恐ろしくなって逃げました。豊玉毘売は本当の姿を見られたことが恥ずかしく、子供を置いて本国へ帰ってしまいます。子供は、鵜の羽で葺き終わらないうちに生まれたので、鵜葺草葺不合命(うかやふきあえずのみこと)と名付けられました。豊玉毘売は置いてきた子供の事が忘れられず、妹の玉依毘売を送りました。成長した鵜葺草葺不合は叔母の玉依毘売と結ばれ、4人の子供が生まれました。そのうちの一人、伊波礼毘古命(いわれびこのみこと)が初代天皇である神武天皇だと言われています。
ちなみに、ワニは和邇ともいい、今のワニともサメとも言われていますが、私は王仁氏のことだと思います。王仁氏は、のちの応神天皇の時代に百済から渡来した豪族です。
左:任部社(とうべのやしろ)[古名専女社(とうめのやしろ)]
祭神:八咫烏命(やたがらすのみこと)。
河合神社創始のときより祀られている社。古名専女とは稲女とも書き、食べ物を司る神々が祀られていたことを示している。のちに「百錬抄」安元元年(1157)10月26日の条にある「小鳥社」と合祀された。昭和6年(1931)、御祭神の八咫烏命が日本の国土を開拓された神の象徴として日本サッカー協会のシンボルマークとなって以来、サッカー必勝の守護神ともされている。
右:貴布禰神社(きふねじんじゃ)
祭神:高龗神(たかおかのかみ)
応保元年(1161)収録の「神殿屋舎等之事」に河合神社の御垣内にまつられていたことが収載されている神社。水の神。
六社
北(右)より
諏訪社(すはしゃ)
祭神:建御方神(たけみなかたのかみ)
衢社(みちしゃ)
祭神:八衢毘古神(やちまたひこのかみ)
八衢比賣神(やちまたひめのかみ)
稲荷社(いなりしゃ)
祭神:宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
竈神(かまどのかみ)
祭神:奥津日子神(おくつひこのかみ)
奥津比賣神(おくつひめのかみ)
印社(いんしゃ)
祭神:霊壐(れいじ)
由木社(ゆうきしゃ)
祭神:少彦名神(すくなひこなのかみ)
第八回、建仁元年(1201)12月10日式年遷宮のために描かれたと見られる「鴨社古圓」によると、河合神社の御垣内にそれぞれ別々にまつられていた。江戸時代の式年遷宮の時各社が一棟となった。
本殿の両脇には、「鏡絵馬」が飾られています。
社務所で鏡絵馬が授与されます。初穂料は800円。
御供米(おくま)もいただけます。これをご飯に混ぜて炊くと美しくなれるのだとか。
絵馬には、あらかじめ眉、目、鼻、口が描かれています。
境内にはお化粧室があります。自分のメイク道具を使ってもいいし、クレヨンや色鉛筆も用意されています。この顔を自分の顔に見立てて化粧をし、外見的な美しさだけでなく、内面的にも美しくなれますように、とお祈りして奉納します。
(2014.1.2撮影)
友人と一緒にしましたが、それぞれ個性が出ておもしろいですね。
(2011.3.3撮影)
方丈の庵
『方丈記』の作者、鴨長明は、下鴨神社の禰宜(ねぎ/神職のこと)長継の次男として生まれました。幼少のころから歌道に優れ、後鳥羽院にも認められて、御和歌所寄人となり、宮廷歌人として活躍しました。『新古今和歌集』には、
石川や 瀬見の小川の 清ければ 月も流れを たずねてぞすむ
といった歌をはじめとした、十首が取り上げられました。この瀬見の小川は、河合神社の東を流れる川のことです。
「方丈の庵」長明が晩年を過ごしたといわれる建物を再現もの。長明は50歳の頃、禰宜鴨祐兼からの強い反対により、神職の道を閉ざされて出家しました。そして、大原からあちこち転々としながら『方丈記』を書きました。この建物は、各地を移動しやすいように、組立式となっています。また、一丈(約3m)四方になっていることから、「方丈」といわれています。
三井社(別名三塚社)
中社 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)
西社 伊賀古夜日賣命(いかこやひめのみこと)
東社 玉依媛賣命(たまよりひめのみこと)
総門のちょうど向かい側にあります。このあたりは蓼倉郷にあたり、三井社は賀茂社蓼倉郷の総(祖)社として祀られていました。
『古事記』によると、日向(ひむか)から東に向い、熊野の地に降り立った伊波礼毘古命の案内人として、天から八咫烏が使わされました。この八咫烏が賀茂建角身命の化身だといわれています。伊賀古夜日賣命は、賀茂建角身命の妻になります。こちらにも玉依姫が祀られていますが、二人の子に玉依日子(たまよりひこ)と玉依姫(たまよりひめ)がいたことから、二人の関係性からすると、子供の方になります。
どちらの玉依姫か混同してしまうため、海神の子を玉依毘売(姫)、賀茂建角身命の子を玉依媛と書き分けているようです。
糺の森と瀬見の小川
「鴨社古図」では、瀬見の小川は馬場の西側を流れています。