看板によると、
「大徳寺は、鎌倉末期正和4年(1315)に、大燈国師(宗峰妙超 しゅうぼうみょうちょう)により開創され、花園天皇と後醍醐天皇の厚い信仰を受けた。
室町時代には、幕府の保護を時代して、在野の禅院として独自の立場を貫いた応仁の乱で建物は焼失したが、「一休さん」として親しまれている四十七世住持の一休宗純が酒井の豪商の保護を受けて復興し、豊臣秀吉や諸大名により建物や寺領が寄進され、江戸時代初期に現在の建物はほとんど整えられた。
三門・仏殿・法堂・経蔵・庫裏・方丈など、主要建物がすべて保存され、禅宗の典型的な伽藍配置を示している。唐門は聚楽第の遺構と伝えられており、豪華な彫刻に飾られた桃山時代の代表的建物である。方丈の室内を飾る狩野探幽の襖絵をはじめ、書画、古文書など多くの寺宝を蔵する。茶祖・村田珠光、千利休など多くの茶人の帰依を受け、茶道との関わりが深い。」
大徳寺内に、茶室は47つあるそうです。すごいですね。
中は写真撮影禁止なので補足すると、
本坊の中にある唐門は、西本願寺、豊国神社と並ぶ、桃山三唐門のひとつです。
もともとは、明智光秀が母の供養の為に寄進した「明智門」 がありましたが、明治19年に南禅寺に売却したとか・・。龍や鯉などが描かれていて、ずっと見ていても飽きないため、日暮らし門とも呼ばれています。
唐門の前にある南庭と小堀遠州作庭の東庭からなる庭園は、特別名勝ともなっています。
唐門正面に、小さく盛られた砂山がふたつ、その右手には、小さな島をイメージした石が配置されています。
東庭は、当時は比叡山が見えたとされ、南側から北へ石がだんだん大きくなり、さらに砂地部分も広くなり、遠近法で作られています。
これがまた素晴らしいです。
狩野探幽の水墨画は、白鷺の輪郭を取らずに、周りを墨でぼかして、浮かして描かれています。
続いて、芳春院。
「慶長13年(1608)、加賀の前田利家の夫人芳春院が、玉室宗珀を開祖として建立した大徳寺の塔頭で、前田家の菩提寺。建物はその後火災にあい、現在の本堂は明治初年に建てられたもの。
本堂背後には飽雲池(ほううんち)を前にした二重の楼閣呑湖閣(どんこかく)があり、金閣、銀閣と同様、楼閣山水庭園として名高い。呑湖閣は、元和3年(1617)に前田利家の子利長が、小堀遠州に依頼して建てたものと伝えられる。池の上に架かる打月橋には、開祖玉室の筆による「打月」の二字の額を掛けている。池中には、かきつばたや睡蓮が多く、花時は見事である。庭園はたびたび改造されてはいるが、なお創建時の面影を伝えている。墓地には、芳春院の霊屋、かの東寺百合文書の整理を行った前田綱紀の霊屋をはじめ、前田家代々の墓がある」
南庭は、「花岸庭」と名付けられた白砂が広がる枯山水庭園で、山深い渓谷から流れ出る水がやがて湖にそそぎ、大海に帰るという山水の様だそうです。
呑湖閣は、金閣、銀閣、飛雲閣と並んで京の四閣のひとつともいわれています。閣上から比叡山が東側に見え、その向こうに広がる琵琶湖の水を飲み干すという意味を込めてつけられたそうです。医者横井等怡と小堀遠州によって建てられました。
呑湖閣前の池は、もっと広かったそうですが、今は半分になってしまっています。もったいなーい。
打月橋の真ん中には1丈ほどの広さがあり、そこから池に映った月を眺めるという・・風流ですね~。
入り口の屋根を見ると、前田家の家紋(加賀梅鉢)になっています。