参考:日文研 花洛往古図(内容年代:平安時代末期-鎌倉時代)
平安時代の地図を現代の地図に置き換えるとこんな感じになります。
鳥羽離宮公園の少し北側に鳥羽離宮北殿があったといわれています。
金剛心院は、今やラブホテル街・・^^;
まったく、なんてところに建てるんだっ・・。
城南宮のすぐ北、新城南宮通りから1本北に行ったところにあります。この道の右側です。
ホテルとホテルの間にひっそりとあります。
後宮塚陵墓参考地。
皇族の墳墓とされましたが、被葬者が特定できない墓地になります。
北へ向かって田中殿のあとへ。
住宅街のなかにあります。
だいたいが公園になっているんですね。
裏に由緒書きもあります。
もともと田中殿は、八条院暲子内親王(鳥羽法皇の娘/崇徳天皇の異母妹)の御所として、鳥羽上皇が作られました。
1141年3月、鳥羽上皇が鳥羽殿東御堂にて剃髪し出家、法皇となります。
同年12月崇徳天皇が近衛天皇に譲位して、この田中殿に移り住みました。
1145年8月待賢門院(崇徳天皇の母)が三条高倉殿にて亡くなり、崇徳天皇は後白河天皇(崇徳天皇の弟)と一緒に住もうと提案し、東三条殿へ移ります。1151年には近衛殿にいましたが、近衛殿が近衛天皇(崇徳天皇の義母弟/八条院暲子内親王の弟)の皇居となったので、東八条殿へ移ります。しかし11月東八条殿が焼亡し、今度は三条烏丸桟敷殿へ・・。
1156年6月、崇徳上皇が鳥羽殿に鳥羽法皇(崇徳上皇の父)を見舞いにいったが、対面させてもらえず、田中殿へ引き返した、という話が残っています。そして7月鳥羽法皇も崩御。「古事談」によると、法皇は側近の藤原惟方に、自身の遺体を崇徳天皇に見せないように言い残したそうです。
鳥羽法皇は、父白河院と待賢門院が通じて生まれたのが崇徳天皇と思い、叔父子と忌み嫌ったことが原因と言われています。
その後、崇徳天皇はひそかに白河北殿に移り兵を集め、これが保元の乱のはじまりとなります。
(株式会社ユニプラン『院政・源平年表帖』2012年 参照)
崇徳天皇は三大怨霊の一人ともいわれていますが、それだけ恐れられている=それだけひどいことをした、のだと私は考えています。
叔父子というのもとってつけたような話だし、『台記』によれば待賢門院が亡くなる時、鳥羽天皇が駆けつけて看取り、号泣したという話もあるようです。本当に忌み嫌っていたら駆けつけないでしょう。そもそも後白河天皇は自分の子と信じて、崇徳天皇だけ信じないというのも不思議。お見舞いを断ったのも、親として弱った自分を見せたくなかったのかもしれませんよね。
西行寺跡は、油小路通りの一本西側にあります。
ちょっとわかりにくいですが、この右側にあります。
鳥羽上皇に仕えた北面の武士、佐藤義清(西行)の邸宅跡になります。江戸時代には庵室(西行寺)が建てられ、境内には月見池、剃髪堂がありました。
白河天皇成菩提院陵
あとで回った所と比較しても、一番質素な感じがしました。
あれだけ権勢をふるっていた人なのに、不思議です。
泉殿は、新城南宮通りに面したところにありました。
これ以上下がれないので・・斜めになっちゃった^^;
浄菩提院塚陵墓参考地。
皇族の墳墓とされましたが、被葬者が特定できない墓地になります。