今出川寺町にたたずむのが大原口道標。
ここは、江戸時代、大原口と呼ばれた辻でした。
慶応4年(1868)に建てられたことがわかります。
4面に方角と距離が書かれていて、これがまた大きくてびっくりです。
三条白川橋,五条別れ,吉田本町,北白川西町の道標とともに,史跡として京都市登録文化財になっています。
【南】
かう堂(革堂)九丁、六角堂 十九丁
六条 卅五丁、祇園 廿二丁
清水 廿九丁、三条大橋 十七丁
【東】
下かも 五丁、比ゑい山 三り
吉田 十二丁、黒谷 十五丁
真如堂 十四丁、坂本越 三り
【北】
上御霊 七丁、上加茂 三十丁
くらま 二り半 、大徳寺 廿三丁
今宮 廿六丁
慶応四辰年四月
【西】
内裏 三丁、 北野 廿五丁
金閣寺 三十丁、 御室 一り十丁
あたご 三り
もう少し北に行くと、幸神社(さいのかみのやしろ)の碑があります。
ここを西(左)へ曲がります。
幸神社があります。
出雲幸神社(いずもさいのかみのやしろ)ともいいます。
ここも10年ぶりくらいに来ました。
案内板より、
天武天皇の白鳳元年(661)に再興され、平安京創建時(794)桓武天皇より、皇都の東北の鬼門除け守護神として造営されました。
平安京造営時には社名を「出雲路道祖神」といい、江戸時代の初めに、現在の地にご遷座された際に「幸神社」と改められました。
主祭神に祀られている猿田彦大神は、当社につたわる道祖神信仰と習合せられ、古くより霊験あらたかな縁結びの神として崇められています。
そして、相殿神に祀られる天細女命は、神代随一の踊り手で芸能の始祖として知られ、また歌舞伎の創始者である出雲の阿国が当社の稚児、神子として仕えられた故実により、芸能上達を願う人々の崇敬を集めています。
本殿東側の壁に祀る三番叟(さんばそう、御幣を担ぐ猿の神像)は、御所内裏の東北隅の猿が辻に祀られる猿の神像とともに皇都を護っています。
表鬼門である東北の空を雲上にて眺望し、疫病、悪鬼、邪気などの侵入を防ぐ姿をしています。
入口にある「皇城鬼門除 出雲路幸神社」の碑。
でもこの碑、まだ新しそうですね^^;
ここも曲がってますね~。
天照大神(あまてらすおおみかみ)
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
少彦名神(すくなひこなのかみ)
可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこぢのみこと)
大国主命おおくにぬしのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)
天細女命(あめのうずめのみこと)
石神さん
境内東北角にあります。
疫神社
猿田彦大神の碑
右上になんとなーく、七一七と読めます。
鬼門の猿は、わかりにくいですが、本殿の東北角にあります。
これが目印!
このあたりで、見上げると・・
猿がいます!
社伝には、江戸時代にこの地に移されたとあり、
もともとは、愛宕郡出雲郷にあったと思われます。
平安京オーバレイマップ より。
ちょうど上御霊神社のあたりですね。
ここに出雲寺跡ともあるので、関係ありそうですね。
そして、猿田彦神社もあります。
これも平安時代は、今の地ではなかったようですけどね。
本当にそうなのか、ちょっと検証。
平安京の内裏角を線で結んで伸ばすと・・ちょうど上御霊神社の上あたり、つまり出雲路にぶつかりました!
ついでに今の位置は、京都御所(京都御苑内)の東北の位置です。
こう見ると・・今の方が遠いですね。
以前書いた記事もどうぞ。
約4時間の寺町散策でしたw