源氏の六条堀川邸は、京都市下京区堀川通り五条下ル西側にありました。
1185年10月17日 頼朝の命令により、土佐坊昌俊が、六条堀川の源義経宅を襲います。
義経は、佐藤忠信らを伴い、自ら討って出て応戦したため、暗殺は失敗に終わります。
源行家の軍勢も加わり、昌俊は鞍馬山に逃げ込みますが、義経の郎党に捕えられてしまいます。義経はこのことを、仙洞御所の後白河法皇へ報告します。そして、10月18日、後白河法皇は、義経・行家に、源頼朝追討の宣旨を下しました。
これにより、頼朝と義経は本格的に敵対してしまいます。
「京の名水として知られ、平安時代、源氏の邸宅内に取り入れられていました。
室町時代には、南都の僧村田珠光がこの畔に住み、茶道を興し足利義政も来遊したという。江戸初期元和二年五月織田有楽斎はこれを改修した。内径二尺四寸の円井戸であった。天明の大火で埋られたが、寛政二年、薮内家六世竹陰によって修補され、その碑が七世竹猗によって建てられていたが円井戸碑ともに、第二次世界大戦最末期の民家の強制疎開とともに撤去されました。昭和四十四年醒泉小学校百周年記念事業の一つとしてここに碑をたて名水を偲ぶよすがとした。」
参照:平安京オーバレイマップ
このあたりは、今も左女牛井町というのが残ります。
また、平安時代の地図には、六条通のひとつ南側に、左女牛井通というのもあったことがわかります。