お友達が樟葉に日本茶カフェを3月3日にオープンしたということで、
ようやく行ってきました。
ロゴマークがかわいい。知り合いのデザイナーさんに考えてもらったんですって。
テーブルにはそれぞれに茶香炉がおいてあります。
照明もかわいらしいです。
店内はほかの方もいらしたので、控えました。
茶の音ランチは、野菜にもこだわられていて、お茶もふんだんに使われていました。
サラダはいろんな歯ごたえのものが楽しめるのがおもしろいです。
中でもいかすみパンが入っているのにびっくり。
抹茶ドレッシングがまたおいしかった!
ごはんは、最初碾茶で、そのあとお茶のふりかけ、そしてお茶の出汁でお茶づけに・・あぁ、最高です!出汁がめちゃおいしくて、そのままでも飲んでましたw ご飯の後のほうじ茶もおいしかったです。
パフェは、抹茶かほうじ茶か悩んでいたら・・茶の音パフェはどっちもはいっているということで、もちろんこれに。
ロゴマークをアイシングしたクッキーもしっとりでした。
アイスはどちらもちょっと渋みがあって、大人の味!
その下の抹茶の蜜もやばいほどおいしいです。ごちそう様でした!
せっかく樟葉に来たので、この近くの史跡を見たいなーと思って、
交野天神社に向かいました。カフェからは約15分くらい。
ここを曲がると、あとはひたすらまっすぐ。
暑かったので・・意外と疲れました。
第一の鳥居と石碑。
鳥居から向こうが一気に雰囲気が変わります。
実は私・・こういうちょっと樹がうっそうとしているところは苦手です。
山道とかどうも不安になります。
でもそれよりは好奇心が勝つので、行きましたよもちろん。
「日本書紀」によると、越前の三国(福井県)から迎えられた継体天皇は507年樟葉宮で即位したとされます。
石燈籠が並ぶ参道を進み、左に曲がって、木造の鳥居をくぐると、拝殿の向こうに室町時代に修復された一間社流造で檜皮葺の本殿が見えます。拝殿の右に森の中を奥へ進む道があり、これが貴船神社への参道です。つきあたりの右手に自然石の階段があり、この小丘のあたりは継体天皇が即位した樟葉宮跡と伝えられています。
また桓武天皇は、延暦6年(787)長岡京の南郊の地を選び、郊祀壇を設けて父光仁天皇を天神(あまつかみ)として祀りました。これが交野天神社の起源とされています。
鏡伝池はここから南の「市民の森」にあり、古来観月の名所で、鷹狩りのあと鷹の姿をこの池水に映すのが慣わしだったといわれています。
途中、こんなものがありました。
おもしろい形ですね。
第二の鳥居。弘化4年(1847)とありました。
つきあたりを90度曲がります。
第三の鳥居。左手に手水舎があります。正面が本殿です。
この鳥居がちょっとおもしろいですね。屋根になっていました。
逆行だったから逆からの方がわかりやすいです。
さらにズーム!
本殿。この向こうに朱色の交野天神社、末社八幡神社が並んでいます。
祭神
交野天神社:光仁天皇(第49代)、
八幡神社:誉田和気命(ほむたわけのみこと)
この本殿の右側に貴船神社に続く道があります。
あぁ、またここでも90度を2回曲がります。
ということは、よほどの怨霊が封じ込まれているのでしょう・・。
本殿右横に大神社と祀られていましたが、ちょっとよくわからず。
わーん、なんて心細い道!
でも50mとあったので、踏ん張りました。
つきあたりにあった看板。
武烈天皇の死後、大蓮大伴金村(おおむらじおおとものかねむら)らによって越前の三国(福井県)から迎えられた男大迹王(おおどおう)は、507年樟葉で即位したとされます。このとき王の知己であった河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)が密使として活躍しており、即位には北河内を本拠地とする馬飼部の大きな貢献があったと考えられます。
継体天皇は5年後に山城国筒城(やましろのくにつつき)(京田辺市付近)、12年後に弟国(長岡京市付近)に移りましたが、大和国に入ったのは20年後のことです。以上は「日本書紀」によりますが、「古事記」は樟葉宮以降については何も記していません。
樟葉宮跡と伝えられるのは、枚方市指定文化財となっている貴船神社のある小丘のあたりです。
なお、関白左大臣一条実経(1223~84)は、次の歌を詠んでいます。
くもらじな ますみの鏡 かげそふる
くずはの宮の 春の夜の月 (続古今和歌集)
ということで、階段を登ります。
あがった左手に、史跡 継体天皇樟葉宮跡伝承地の史跡があります。
「日本書紀」継体天皇元年正月甲申の条に、「天皇行至樟葉宮」と見え、そこに即位せられた樟葉宮が樟葉とよばれたこの地域に営まれたと考えられており、交野天神社境内の東北方に当たる小高い丘の上にある貴船神社の付近が継体天皇樟葉宮跡と伝えられている。村の産神で穂掛神社とも呼ばれていた貴船神社は、現交野天神社社殿のあたりにあったものを樟葉宮とせられていた丘に移したものと伝承されている。
と書いてあります。
祭神 高龗神(たかおかみ)、継体天皇
看板読んでも、あまり意味がわかりませんのでしたので、「日本書紀」より継体天皇についてご紹介します。
18歳で武烈天皇が崩御し、直径の皇位継承者がだれもいなくなりました。
そこで、大伴金村は北陸にいる、応神天皇の5世の孫が男大迹王を候補者として立てます。そして樟葉宮で即位して継体天皇となります。
そして継体天皇は、武烈天皇の姉手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后に迎えました。そして山城の筒城、山城の乙訓を経て、即位して20年後に大和の磐余(いわれ)に遷宮します。
530年に継体天皇は82歳で亡くなります。結構長寿ですね。
でも後を継いだ長男の安閑天皇(あんかんてんのう)は在位2年で崩御、二男宣化天皇も4年で崩御。ちなみにこの二人は、目子媛(めこひめ)との間に生まれた子でした。
あやしい、あやしすぎます。絶対殺されていますよね。
そして、皇后との子に生まれた子が欽明天皇となって即位します。
蘇我稲目の娘がこの欽明天皇に嫁いでいます。ここから蘇我氏が権力を強めていきます。
権力争いの匂いがプンプンします。
継体天皇親子を葬り、実権を握ろうとしたのではないかと考えています。
そこで、その祟りを恐れ、継体天皇の即位した樟葉に祀ったのではないでしょうか?
ちなみに、もうひとつの祭神、高龗神は、
「古事記」によれば、伊邪那岐(いざなき)と伊邪那美(いざなみ)との間に生まれた子に、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)がいます。
伊邪那美は火之迦具土神を出産した時に火傷をして亡くなってしまいます。それを悲しんだ伊邪那岐は、剣で火之迦具土神の首をはねてしまいます。その剣に着いた血から、建御雷之男神(たけみかずちのおのかみ)や、闇淤加美神(くらおかみのかみ)ほか8神が生まれます。
この闇淤加美神が、闇龗神(くらおかみのかみ)で、高龗神とも同一神とされます。京都の貴船神社と同じで水神です。
実際そんなことで子が生まれるわけもないので・・伊邪那岐が自分の息子である火之迦具土神を殺したという、罪悪感から生まれた念のようなものじゃないかなと思っています。そしてそれを恐れて祀ったのではないでしょうか?
みなさま、どう思いますか?
ほんとうにこじんまりとしていました。
上から見下ろすとこんな感じです。
社務所近くのお花がすごくきれいでした。
つづいて、鏡伝池へ。
広かったです。周りにお花もいっぱいありました。
水播き中だったので、うまく撮れず。
鏡伝道。
駅まで徒歩30分かかりました。
かなりばてました。タクシーでもよかったかもと思いました。