三嶋神社は、東大路通の渋谷通りを東に行ったところにあります。この細い道を行ったマンションの裏手で、豊国神社から近いところです。
13時から神幸祭ということで、間に合うなーと思って豊国神社の例祭にもいってみただけなんですね。
メインはこっちの剣鉾w
それと三嶋神社という名前に惹かれました。
私のルーツは愛媛にあります。
(両親がいとこで、両祖父母とも同じ地区)
三嶋神社は、全国に約400社あり、そのうち3割が愛媛だという。その愛媛の三嶋神社に一番縁が深いのが河野家(こうのけ)です。
私の先祖は河野家家臣団のひとつであり、河野家から分かれたともいわれています。
私の先祖が住んでいた川内町(旧三内村)は、河野家の活動拠点でもあり、3つの三島神社がありました。
もちろん祭神は大山衹命(おおやまつみのみこと)。
愛媛の大三島は、大山衹神社、三嶋神社の総本山。
三嶋は御島であり、神の島とされていました。
そして、この三島神社の社紋が、河野家の家紋と同じではありませんか。
左:河野家家紋、右:三島神社社紋
京都にも三島神社があるのを知りませんでした。由緒を見ても関連性はなさそうだったけど、気になったのでそれも合わせて確認しに行きました。(前置きが長くてすみませんっ)
残念ながら台風接近中・・雨なのでやはり仕方ないですよね。
子供神輿も2基あり、神職が順にお祓いをしました。
やがて雅楽の演奏が始まり、祝詞をあげられていました。
マイクを通してなんとなく声だけ聞こえます。
この神社は、負債により一度境内の社殿などを失い、マンションが立ちますが、その隅に再建されました。
今年がちょうど15年目なのだそうです。
そして、お神輿も御祓い。
おもむろに、ビニールをめくりあげられました。
ここにも社紋がありました。
そして、本殿の御霊をお神輿に遷されました。
(撮影していいのかなーとか思いながら・・何も言われなかったので。ごめんなさいとここで謝っておきます。)
渋谷通りでお神輿をお見送り。
東へ行ったところにある御旅所にいき、そのあとUターンして、ちょっと南へ入り、それから馬町まで行って戻ってくるようです。
・・忘れてはいけません、私の目的は剣鉾。
神輿一行が行ったときに、マンションの下に剣鉾があったのが見えて、戻りました。(人に隠れて見えなかった)
これこれww 松鉾です。
このあと出発するんだろうなと思い、先に神社の写真を抑えておくことにしました。(こっちも入れなかったから)
ほんとうにひっそりとあります。
本殿。
HIGASHIYAMA のHPによると、
御祭神は、大山祗大神(おおやまづみのおおかみ)、天津日高彦火瓊々杵尊(あまつひだかひこほのににぎのみこと)、木之花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の3神。また巳蛇(水蛇=うなぎ)が神の使者として祀られているそうです。
祭神について書かれているものが、現地では見当たらなかった・・。
祭典だからか、お供え物、玉串がありました。
由緒書きもチェック。長いです。
「三嶋神社は、東山三十六峰台31番目の阿弥陀ケ峰の東の麓、洛外の京都市東山区渋谷通上馬町に鎮座しています。
街道名の「渋谷(しぶたに)」は「滑谷(しるたに)」が転じたとされ、かつてぬかるみが「シル」と呼ばれていたことから、この地が古くから湿地帯としてぬかるみの多い街道であったことが想像できます。
街道の北面は急激な谷となっており、牢ケ谷(ろうがたに)または三嶋獄(みしまだけ)とも呼ばれ、清水寺の音羽の滝を主流として、阿弥陀ケ峰より湧き出でる小川を含む音羽川が流れ、渋谷街道と並行して鴨川へ注がれており、その小川には常に数百の鰻が屯していたとも伝わっています。
軍事的には当時の渋谷街道は、西へは平家一門の邸宅が軒を連ねる六波羅へとつづき、東へは東国や伊勢平氏の本拠地伊勢・伊賀への玄関口となる街道として常に重要視されておりました。平安時代(1156)に勃発した保元の乱は、武士が台頭する幕開けとなる戦として知られていますが、その戦を記した『保元物語』には渋谷街道が「苦集滅道(くずめじ)と呼ばれ、崇徳上皇方に対して検非違使左衛門尉 平実俊の軍勢が配置されたとあります。
「苦集滅道」とは仏教の用語で、「苦」は生・老・病・死の苦しみ。「集」は苦の原因である迷いの心の集まり。「滅」は苦の集を取り除いた悟りの境地。「道」は悟りを開く修行。と説かれており、釈迦が悟りに至る道筋をまとめた教を示す言葉で、四諦(したい)とも呼ばれています。
この名称を古名としたのは、この地が平安遷都後より「鳥部郷(とりべのさと)と呼ばれ、死者を葬る地として広範囲にわたって墓所が形成されたことにより、仏教の教理ともいえる「苦集滅道」を街道名としてつけたと思われます。
さらにこの地より北側一帯は「小松谷」と呼ばれ、平清盛の長男平重盛公が居住していた邸宅がありました。平重盛公が小松殿や小松内大臣といわれたのも地名による尊称であり、『平家物語』で灯籠大臣と称されて登場するのは重盛邸宅に建立された四十八間の仏堂に、四十八基の灯籠を提げいたことからといわれています。
このような平家ゆかりの地に当神社が創始されたのは平安時代の末期、後白河天皇の中宮(皇后)平滋子建春門院が、皇子の誕生を摂津国島下郡三島江村(現在の大阪府高槻市三島江)に鎮座する三島鴨神社に祈願したところ、夢の中に「汝に男子を授く、依って三島の神をお祀りせよ」との御神託を受け、第80代高倉天皇が誕生されました。後白河上皇は中宮が受けた御神託のとおり、社殿の造営を平重盛公に勅命し、永暦元年(1160)9月に京の巽の方角(南東)の守護神として創建されました。以来、生命の出生と生育を守護する神として信仰され、治承二年(1178)5月、高倉天皇中宮平徳子建礼門院(平清盛の娘)御懐妊御平産御祈祷(安徳天皇の安産祈願)をはじめ朝廷の中宮女官の安産祈願所として篤い崇敬がありました。
さて、『平家物語』では、平重盛公の人物像を文武両道に優れ、性格温厚で教養・学識もあったことが伺えます。平治の乱(1159)では源義朝の長男で猛者として知られた悪源太義平との一騎打ちや殿下乗合事件で平資盛(重盛の息子)が受けた報復として、郎党たちに摂政藤原基房を襲撃させたこともあり、温厚な人柄の中にも常に平家一門の繁栄を願う激しい感情を持っており、父清盛の期待の息子であったと考えられます。常に朝廷と平家の調整役として振る舞い、鹿ケ谷事件で後白河上皇を幽閉しようとした清盛に「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」と諌めた話は有名であり、平家の棟梁である清盛に意見できる数少ない人物でありました。鹿ケ谷事件以後、重盛は病に冒され内大臣の職を辞任する事となりました。『山塊記』には後白河上皇が重病の重盛公を気遣って見舞いに行幸したとあり、官職を退いても重盛公の存在が平家と朝廷の間を取り持つ重要な人物とされていたことが伺えます。
後世の重盛公は、出家し法名を「浄連」として平家一門の繁栄を祈願しつつ、治承3年(1179)にこの地を去りました。その後平家は源氏の挙兵により衰退の一途をたどり、壇ノ浦にて滅亡することとなります。
このように当神社の創建は高倉天皇の誕生により後白河上皇と平重盛公が朝廷と平家の共存を象徴するべく創祠した神社でもあり、創建した縁の神社であります。」
本殿の横には揺向石があります。
「承安4年(1174)佐馬頭源義朝の子、牛若丸(源義経公)が当神社に参籠した折り夢の中に白髪の翁が現れ、汝志久しく可からず、早々に奥州に下る可しとの御神託があり、夢より覚めて再拝し翁の立ち処を見ると、石があった。今社頭にあるこの石である。以来「揺向石」と言われ、妊婦が当社に参拝をなし男子の授けを祈願し、この石に手を触れ、お腹を撫でると牛若丸のような立派な男子が授かると古くより伝えられている。
また江戸期の当神社境内図には、相生の松(日本の離れている松が中ほどの枝同士で一本に結ばれている神木)の間に、この「揺向石」が祀られており、結び(良縁、夫婦和合、家内安全)の御神徳がある。」
社務所には鰻の絵馬などがあります。
剣鉾がこっちに移動していました。
てっきり飾り付けをしているのだと思ったら・・
ちょー待てぃ。片付けてるやーん。
まじか・・まじなのか・・。
残念すぎる。剣鉾差し見たかった。
剣鉾が出ないなら、用はないので・・(ごめんなさい)。
でも一応御旅所という場所に行ってみたら、こんな感じで臨時に作られたものでした^^;
さて、三嶋神社の由緒書きもろもろ気になる点があるので、調べてみました。
『都名所図会』天明6年( 1786)には、
三島明神の社は、馬道北側にあり、当所の氏神にして、産子は一代鰻を禁ずといふなり。
もともとは三島明神社で、氏子は生まれてから死ぬまでずっと、鰻は食べない地域だったのですね。
『花洛名勝図会』、元治元年(1864)年には、
三嶋明神社(みしまみょうじんのやしろ)
大佛馬町の北側にあり。大岩の社ともいふ。伊豆国加茂郡三嶋明神を勧請す。
伊豆から勧請されたのですね。
伊豆の三島社は、源頼朝も信仰していた神社です。
『吾妻鏡』での所見は、1180年8月17日の項に神事があったことが書かれています。そして、同10月21日には、信仰のあまり、三嶋大明神の神領として、伊豆国御園、河原谷、長崎を寄進し、年貢も免除されたという。
くしくもこの日は、義経と再会をした日でもあります。
伊豆の三島社は、伊豆諸島の三島から来ているといわれているそうですが、私はやはりこれもまた愛媛から勧請されたものだと思います。
愛媛は、神の国造りだから。
さらに絵もあり、かなり広かったと思われます。境内に「●生石」という大きな石が見えます。漢字が読めない。気になります。二本の松の木も見えますね。
参考:日文研 花洛往古図(内容年代:平安時代末期-鎌倉時代)
阿弥陀峰の麓に、「●石松」というような文字が見える。
石は平安時代からあったのではないかと思います。
でも・・岩の伝説から見ても、これがなぜ安産祈願になるのか意味不明。
1174年は、義経16歳、確かに鞍馬から奥州に向かった年ではあります。
私の持つ義経研究者の本には、2冊ともこの石には触れてもいません。
ということは、やはり義経伝説のひとつなのだと思います。
多分・・この渋谷街道は通ってはいると思いますから。
神社のいわれも、なぜ安産祈願??
大山衹は戦いの神として、武士たちに信仰されていた神社です。
大山衹についてはこちらを参照。
娘を返されて、天皇の子孫は短命になったというのに、
なぜ天皇ゆかりの人たちが崇高するんだろう・・。
長寿を願うならまだしも・・。
また祭神には、返された磐長姫命がいないのも気になります。
この磐長姫命こそ、磐となって祀られているんじゃないでしょうか?
結婚できなかった→縁がなかった→縁結びの神
子供が産めなかった→安産の神
これなら理解はできます。
剣鉾も調べました。『剣鉾のまつり』京都市文化財ブックス という本によると、
三嶋神社の剣鉾は、菊鉾、獅子牡丹鉾、松鉾の3つあります。
獅子牡丹鉾は、宝暦5年(1755)の銘があるとか。
菊鉾は、一の鉾とも呼ばれ、妙法院門跡の寄付と伝えられているそうです。
獅子牡丹鉾と、松鉾は、この町内で護持していたものだと考えられていますが、詳しくわかっていません。
大正末期か昭和初期からは剣鉾差し巡行はしていなかったそうですが、平成10年ころから復活したそうです。
京都の古地図もいろいろ見たけど、三嶋神社の名前すら見当たらなかったりするので・・平家が滅亡し、平安時代以降は信仰が途切れたのかもしれません。そして江戸時代に再興したのかも?
江戸時代の地図には、「苦集滅道」や「汁谷越」なんかも見れました。