京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)② 本殿、御香水など

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表門(重要文化財

元和8年(1622)、徳川頼房伏見城の大手門を拝領して寄進したものです。正面には、中国二十四考の彫刻で、左から順に、孟子、唐夫人、敦巨、楊香、の物語が描かれています。

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上から順に、孟子、唐夫人、敦巨、楊香。

祇園祭の孟宗山(孟子)、敦巨山(敦巨)も、この物語から来ていますね。

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拝殿(京都府指定文化財

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ここの装飾がいつもきれいで見惚れます。

鯉の滝登りが描かれています。

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さらにアップ。

こんなところまで細やかに描かれているんです!

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拝殿の正面の彫刻。

上段が左側、下段が右側です。

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上段が、西側、下段が東側

 

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北側の彫刻。

(上段が東側、下段が西側)

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北側

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奥に御本殿があります。

慶長10年(1605)に、徳川家康の命で建立、五間社流造になっています。

祭神:神功皇后(じんぐうこうごう)

   応神天皇仲哀天皇ほか六柱

 

・・ほか6柱って誰~?? とても気になります。

 

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「初めは御諸神社といいましたが、862年(貞観4年)9月、境内に清泉が涌いてその芳しさが四方に広がり、そのさまざまな奇跡が起こって、清和天皇より「御香宮」の名をいただきました。中世に伏見宮家の加護を受けて伏見庄九郷の産土神として信仰を集め、近世には豊臣秀吉の寄進を受け、また1605年(慶長10年)徳川家康は現在の地へ現本殿を建て、社領三百石の寄進も受けました。特に伏見で誕生した紀伊、水戸、尾張三候の藩祖は、いずれも当社を産土神とあがめ、江戸時代に社名が益々高まりました。1868年(慶應4年)1月伏見鳥羽の戦いに、当社は薩摩藩の陣営となり、大手筋をへだてて南の伏見奉行所幕府軍戦いましたが、幸いにして戦火を逃れました。10月1日から10日までの「神幸祭」は古くから「伏見祭」と呼ばれて、今も洛南一の大きな祭りとして有名です」

と書かれています。

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御香水

神社の名前の由来にもなった水。

境内から水が涌きだし、よい香りが漂い、この水を飲んだところ、たちまち病気が治ったといわれています。それにより清和天皇から「御香宮」の名を賜りました。明治時代に涸れてしまい、昭和57年に復元されました。

水質維持で濾過機が設置されています。

 

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本殿東側に、井戸と御香水の石碑があります。

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天然記念物のソテツ

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石庭も久しぶりに入りたかったのだけれど、今日は行事のため拝観できませんでした。残念・・。

「元和9年7月、小堀遠州が伏見部長になり庁舎の移転新築を命ぜられた。そこで遠州は得意の造園の腕を揮ひ、数奇を凝らし風雅を盡した立派な庭園を造った。寛永11年上洛した三代将軍家光をここに迎えた時、そのあまりにも立派なのに感嘆して禄高五千石を加増され、茲に一躍大名に出世した。明治維新になり奉行所が廃止され、その跡に工兵隊が出来た時、庁舎はもちろんその庭園も取りつぶされて、僅かに小さい池と築山だけが残っていた。それが終戦後国道二十四号線により取り払われることになったので、その庭石の払い下げを受けて、ここに新たに造園したのである。その中に文明9年(1477)の銘のある珍しい見事な手水鉢がある。又、後水尾上皇から「所からの藤」と仰せられた銘水とその由緒を誌した石の碑も共にここに移した。この石庭は遠州流の手法を現代的に生かした枯山水で、中根造園研究所長中根金作氏の作庭にかかる」

 

ずっと小堀遠州の石庭だと思っていた・・。

よくよく読んだら違うのね。

 

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能舞台

この北側が、七草粥を食べるスペースになっていたので、ちらっと撮影。

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昭和のレトロさが残る社務所の看板

 

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神馬