京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

伏見散策② 長建寺、辨天浜

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長建寺も数年ぶりに行きました。

こちらの雰囲気好きなんですよね。過去書いていなかったのでまとめたいと思います。

「東光山と号し真言宗醍醐派に属します。八臂弁財天(鎌倉時代後期作)を本尊とし、一般に「島の弁天さん」の名で知られています。

元禄12年(1699)、伏見奉行建部内匠頭政宇(たつべたくみのかみまさのき)が中書島を開拓するに当たり、深草大亀谷即成就院の塔頭多聞院を当地に移し、弁財天を祀ったのが起こりで、寺名は建部氏の長寿を願って名付けられました。弁財天は、音楽をもって衆生を救う女神で、福徳・知恵・財宝をもたらす七福神のひとつとして、多くの人々の信仰を集めています。毎年7月第四日曜日の夜に行われる「弁天祭」では、かつては淀川に神輿や篝船が繰り出す船渡御が盛大に行われていましたが、淀川の河流が変わったことなどにより、昭和26年を最後に途絶えました。現在は弁天祭と2月の節分祭に、醍醐派修験道の最高の神髄として柴燈大護摩修行が行われています。

また、古銭型のお守り「宝貝守り」は、江戸時代より今に伝えられています。」

 

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正面の本堂には、八臂(はっぴ)弁財天が祀られています。

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鐘楼堂

十石船に時を知らせたという梵鐘は今はレプリカです。

標準より大きいものだったそうですが、太平洋戦争で軍に供出させ、一部は大砲となってしまったそうです。

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延命地蔵、子育て地蔵

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左:飛龍大権現(ひりゅうだいごんげん)

右:摩利支尊天(まりしそんてん)

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手水(閼伽水 あかすい)

この手洗い石は、元のお寺平安時代中期の即成院の多聞院にあったものを移したものです。

また、伏見は昔は「伏水」と書き、良質の水が涌くことで知られています。これも同じ水脈になります。

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カエル

又カエルという意味から縁起をかついで、信者さんが奉納されたそうです。

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辨天型燈籠

建部内匠頭政宇が、伏見奉行所に着任したすぐの、元禄12年12月に奉納されています。御香宮、藤森神社にも奉納されているのだとか。

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石畳に茶臼もありました。

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演奏をされていました。

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中書島は秀吉が伏見城にいたころ部下の大名「賤ケ岳の七本槍」で活躍した朝散大夫中務少輔「脇坂安治」の邸宅がこのあたりにありました。中務を中国風に中書とするところから脇坂候を敬称して中書さんと呼んだのが地名の起りです。脇坂家は播州滝野の城主維新まで380年も続きました。ここ中書島は脇坂候下屋敷と呼んでいます。元禄7年(1694)まで存在したと伝えられています。殿様屋敷にふさわしく松の大僕がたくさん繁っていましたが、昭和20年(1945)戦争で手入れができずに枯してしまいました。

元禄12年(1699)時の伏見奉行建部内頭政宇播州林田播窪山城主(現在の姫路市林田町)の手によって長建寺は建立されました。彼の政策はこの門から北、宝来橋、今福橋にかけて大歓楽地としました。江戸幕府は伏見を直轄地としました。特に建部奉行在任15年間正徳4年(1714)までは伏見は日本一の大都会でした。明治に入っても伏見は軍人さんの町として大正、昭和20年敗戦まで大発展伏見市であった時代もありました。」

 

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マリア燈籠

江戸時代幕府によるキリシタン禁制時代に流行。柳町の御所にもお出入り許可されていたお茶屋紅屋の隠れ座敷の庭にありました。東寺キリシタン大名高山右近の家は、現在の南浜小学校付近にありました。

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福富稲荷神社

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不動堂と護摩

不動明王青面金剛、水天、醍醐寺開山・聖宝尊師(理源大師)を祀っています。

赤い柵で囲ってあるのが護摩炉で、護摩木を焚く火炉です。

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長建寺のちょうど向かいあたりを辨天浜といいます。

「昔、洛南三大奇祭の一つと謳われた7月23日の夜の長建寺の大祭辨天祭は船上で行われる大柴灯護摩法要で関西一円で有名でしたが、その船渡御はこの浜から出発して宇治川へ出ました。又向側を大倉浜といい、明治22年東海道線の開通を見るまで、この浜で米が降ろされ、酒が摘まれたところです。この浜の北側は「伏見南浜港」といわれて江戸時代は参勤交代の大名の御座船を初め、三十石船、伏見舟の発着点として日本でも珍しい河港でした。

又、この付近一帯、映画のロケーションには絶好の場所であり多くの大作を生みました。昭和58年には新京都百景のひとつに選ばれています。」

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三十石船

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三十石船と月桂冠