二条城の南側には、石碑がいくつかあります。
かなり前に歴史ツアーで回ったんだけど、まだフィルムの時代だったんで、撮りなおそうと思って行ってきました。
東町奉行所跡
「この現NTT西日本壬生別館付近、東は神泉苑の西側より、美福通にいたる一帯は、江戸時代に東町奉行所があった所である。
この奉行所は奉行のもとに与力、同心と呼ばれる職員をもち、京都の市政一般、すなわち行政、司法、警察全般を担当し、さらに畿内幕府領の租税徴収や寺社領の訴訟処理にも当たった幕府の役所で、西町奉行所(現中京中学付近)と隔月交代で任についた。しかし両奉行所それぞれ与力20騎、同心50人で職員の数は少なく、各町の自治組織を利用して市政に当たった。京都町奉行が初めておかれたのは、慶長5年(1600)、寛文8年(1668)からは常置の職となって幕末にいたった。」
大学寮址
「平安京の南にあった四町(252m四方)規模の官吏子弟の教育機関で、現在の国立大学に相当する施設。この南には大学寮で学ぶ学生のための寄宿施設の勧学院(藤原氏)、弘文院(和気氏)、学館院(橘氏)、奨学院(王氏)があった。式部省被官の令外官の一つで、中央の官吏養成機関である。
9世紀後半の最盛期には300人の学生を教えたが、律令制の崩壊にともない徐々に衰退し、安元3年(1177)の大火で廃絶した。学科は紀伝道、明経道、明法道、算道の四科からなり、子弟らは学生となって学問を修め選抜試験を受けて、成績に応じた地位についたが、平安後期には学問の家学化により各道を修める家が固定化した。(略)」
西町奉行所跡
二条城撮影所跡
「明治13年(1910)に横田永之助の横田商会により、京都初の撮影所である「二条城撮影所」が開設された。この撮影所の規模はおよそ300坪の土地に2間罰4間の低い板敷の舞台をしつらえ、それを開閉自由の天幕で覆うという簡単なもので、背景はすべて書き割りであったと言うが、大正から昭和初期の日本映画隆盛の一時代を築いた京都の映画産業の礎となった。
ここで日本映画の父といわれる牧野省三が、尾上松之助とコンビを組み、最初の作品「忠臣蔵」を撮影し、実力をつけた牧野はその後、京都を舞台に数々の名作を手がけるなど、日本映画発展の基盤が作られた」
「平成2年から5年にかけて実施された地下鉄東西線建設に伴う発掘調査により、平安京造営当時の神泉苑の東西幅が確認されました。当該地は、その西端地に当たります。」