五条坂のバス停から、国道の横を歩くこと25分。
さすがに…くじけそうになりました。
人が居なさすぎて!
心細いことこの上ないですね。
参道はあったけど、ものすごい階段・・。
清閑寺とつながっているのかもわからないし、
とりあえず寺を目指すことにしました。
歌の中山。
「安永9年(1780)「都名所図会」に、昔清閑寺に真燕僧都という僧がいて、ある夕暮れ門外に佇みて行き交う人々を見ていると、髪かたち美しい女性が一人で行くのを見て、たちまち愛しい心が起こった。言葉をかけるすべもないので、「清水への道は何れか」と問いかけたところ、その女性は、
見るにだに まよふ心の はかなくて
まことの道をいかでしるべき
と言い捨て、姿をかき消してしまった。その女性は化人の類であるとも言われ、その歌を詠んだ場所を「歌の中山」という、と記されています。」
清水寺まで500mとあり、
ここから清水寺に抜けられるようです。
ただ、なんかここも心細そうな・・。
あとで境内で会った方に、清水寺を進められたけど、
いやというほど行っているのと時間もないのでやめました。
きっとこの道を祖父も通ってきたのでしょうね。
階段のところにありました、天皇陵。
「1歳で即位した六条天皇の養育をしていた藤原邦綱が、この寺を愛し、境内に邸宅を営まれ、六条天皇も行幸されていました。
安元2年(1176)、六条天皇はこの邸宅で崩御され、その遺骸は清閑寺の小堂に葬られました。次に即位された高倉天皇もよく行幸されていました。高倉天皇が寵愛した小督局は、中宮平ら徳子の父である平清盛に宮中から追い出され、ここで尼にさせられました。高倉天皇は「私が死んだら、局のいる清閑寺へ葬ってくれ」と遺言をされ、養和元年(1181)、21歳で亡くなられ、遺言通りこの寺の法華三昧堂に埋葬されました。このことは源平盛衰記(巻25)に記されています。」
とあります。
寺へはさらに階段を上っていきます。
わーん、心細いっ!
萩野はこういうところを一人で行くのは、本当に苦手です。
でも、意を決していきます。
やっと入口が見えてきました。
小督局の供養塔
「歌の中山清閑寺といわれるこの寺は、真言宗智山派に属し、延暦21年(802)紹継法師の創設によるものですが、古典「平家物語」に書かれた小督局が、平清盛のため尼にさせられたところといわれます。小督は高倉帝の愛をうけましたが、帝の中宮建礼門院が清盛の娘だったため、嵯峨に身を隠したのは有名で、これをもとに作られたのが謡曲「小督」です。
しかし帝の心は変わらず、私が死んだら小督のいる清閑寺へ葬ってくれと遺言され、養和元年(281)亡くなられたので、この寺に埋葬されたといわれます。寺の背後の山中に御陵があり、傍らに小督の墓があり、またこのうらにある宝筺印塔は供養塔だといわれます」
黒田清輝「昔がたり」
「明治・大正期の洋画家黒田清輝は、明治26年(1893)、フランス・パリから帰国後の京都旅行にてこの寺に立ち寄り、寺の層が語った小督局の悲恋物語を聞いたとき、現実から離脱するような不思議な感動に襲われたそうです。代表作昔語りは、このことを着想に制作され、清閑寺山門から高倉天皇陵、歌の中山道を背景に描かれ1898年に完成しましたが、焼失してしまいました。現在図の全体を知るにはこの下絵しかない」とあります。
鐘楼は、享保15年(1730)に再建されたもの。
要石
扇を広げたような形で市内が一望でき、石がちょうど扇の要の位置に当たることからこう呼ばれ、願いをかけると叶うといわれています。
触ってみると、ほんのりあったかくてびっくりしました。
昔は、山科・大津方面から京都へ出るには、この付近が通り道で、東のほうからこの寺へたどり着いて初めて京都が見えたので、一つの名所となっていたそうです。
清閑寺窯発祥地
江戸時代(1615-24)に清閑寺住僧・宗伯が開窯した。
宗伯は京焼の名工野々村仁清の師でもあった。」
京陶器の起源は、聖武天皇の御代に、清閑寺の寺領に窯を気づいて土器を焼いたのに始まるといわれています。この清閑寺窯が後の南北朝時代に清水焼となり、続いて粟田焼が生れ、この二つの流れを軸として京焼は発展していきました。
与謝野礼巌(1823-1898)
岡崎の願成寺に住む
明治二十七年愛宕郡田中村に移る
明治29年9月妻を亡くし、その冬清閑寺へ隠栖した。歌を3万首近く詠んだと云われている。墓は西大谷の墓所にあり
年を経て
世にすてられし
身の幸は
人なき山の
花を見るかな
清閑寺茶室「郭公亭」
「清閑寺は幕末に清水寺成就院住職の月照証人と西郷隆盛がしばしば勤皇の謀議をした所で、安政五年(1858)月照が水戸藩の密使降下に尽力し、幕府から狙われた時、ここで西郷と密かに会い、都落ちの計画が茶室「郭公亭」で行われた。郭公亭は鐘楼堂の上方にあったが、荒廃によって平成3年に惜しくも解体された」
紅葉の時期にはまだ少し早かったです。
そして、清閑寺・・肝心の本堂撮り忘れました・・ショック。
帰りは下り坂だったこともあってか、15分で五条坂まで戻れました。