墓所へ行く途中の東側に、赤穂義士 四十六士遺髪塔跡がありました。
昨年だったか(現時点でアップできていませんが)、東京の品川駅近くの泉岳寺(赤穂浪士が葬られている)に行っていたのもあって、なんでこんなところに? 四十七人じゃなかったっけ?と足を止めました。
ちなみに大阪の天王寺にもあります。こっちもなんでだったんだろう?
ツアーで回っただけで、あまり突っ込んでいませんでした。
これによると、
「元禄十五年(1702)十二月に、赤穂浪士吉良邸に討ち入本俵を遂げし後、翌年2月4日に義士四十六人が切腹する二日前に、瑞光院院主の使僧、宗海禅師は細川、松平、毛利、水野の四家大名に預けられた四十六人から髷の髪をもらい受けた。帰京後、大石内蔵助良雄(おしたか)の遺志により、主君浅野内匠頭長矩候の墳墓の傍に、四十六士の遺髪を甕の器に納めて梅、その上に遺髪塔として石塔一基を建立した。石塔には四十六人の姓名と戒名が刻まれている。義士のうち寺坂吉右衛門は切腹していないため、刻名されていない。この遺髪塔は昭和37年(1962)、当地より山科に移転した瑞光院において現在も祀られている。
瑞光院は、慶長18年(1613)浅野長政候の旧蹟地に因州(島根県八頭郡)若櫻城主山崎左馬允家盛候が大徳寺の琢甫宗林和尚を開基として創建された。明暦3年山崎家断絶後、第二世陽甫和尚が播州赤穂城主浅野内匠頭長矩候の内室瑤泉院と俗縁にあり、且つ浅野家遠祖の旧蹟たる等の因縁により、長矩候江戸城において吉良上野介への刃傷におよび浅野家は断絶となる、同年8月大石良雄当院に長矩候の衣冠を埋め、亡君(冷光院殿)の石塔を建立し、以後墓参の都度同志密議の処とした。瑞光院由緒書きより」
・・なるほど、山科の瑞光院はもともとここにあったんですね!
そして、1人姿を消して切腹してないから四十六人だったのか。
山科の義士まつりも前に追っかけているんですが、記事書いていませんでした。
また気が向いたら書くかも。
ここに瑞光院があったときの、大石良雄の墓と四十六士の遺髪塔の写真があります。
さて、さらに北上していくと、小野篁と紫式部の墓所があります。
北大路堀川下がったところ、西側ですね。
まっすぐ行くと、右に折れていて、さらに左の突き当りに石碑、右手に紫式部の墓になっていました。
右が小野篁の墓です。式部に比べると小さいな・・。
右手に石碑があり、漢字ばかりでよう読みませんが、
慶応四年(明治5)とか、北が篁公、西が紫式部と言われている、というような文面がありました。
室町時代初期に成立した源氏物語の注釈書『河海抄(かかいしょう)』に、
という記載があります。
雲林院の南とがありますが、実際は東にあります。
筆者は四辻善成で、1350年頃に完成されたものになります。
紫式部は平安時代中期頃(1000年前後)、小野篁(802-853)
約350年後に書かれたもので、信憑性は低いですね。
それに、200年もあとの式部が篁と並んでいるのもおかしな話ですよね。
篁は井戸を使って冥府とこの世を行き来しており、閻魔大王の側近だったという説も残っています。善良な行いをした人が早死にすると、閻魔大王に伝えて生き返らせてくれたとか。
建勲神社の麓、千本鞍馬口通に、引接寺(いんじょうじ) 通称千本えんま堂があります。ここも篁ゆかりの寺で、紫式部の供養塔があります。
紫式部は人々をたぶらかすようなものを書いたということで、地獄に落ちたという説もあります。そんな式部を救ってもらおうと、式部のファンが篁の隣に墓を作って供養したという話もあるそうです。