角屋。いつみてもこの見事な景観は素晴らしいですね。
久坂玄瑞審議の角屋
幕末、西郷隆盛・久坂玄瑞などの勤皇の志士たちが、角屋で尊王攘夷運動の密議を重ねたところでもあります。
新選組刀傷の角屋
井戸
新選組の刀傷
西郷隆盛が行水に使用したたらい
帳場
刀箪笥
刀掛
主庭と臥龍松
お客様はまずここに通されて、庭を見て和歌を楽しみ、そのあと茶室でお茶をいただき、それから宴会・・という流れで数時間もここで過ごされたそうです。
茶室は3つあり、庭の美見て前に、表千家宗匠覚々斎好みの「曲木亭」、その後ろに茅葺で藪内竹心門の安富常通清隠斎が建てたものを移築した「清隠斎茶席」、そして左側に表千家宗匠了々斎好みの「囲いの間」があります。
松の間
角屋一の大座敷で四十三畳。大正14年(1925)に消失して再建したもの。
襖絵「金地桐に鳳凰図」も美しい・・。
幕末頃の絵師岸連山筆のもの
衝立
この向こうがお庭なのだけど、閉めていても素敵です。
格子が美しいですね。
網代の間
もちろん天井が網代です。
冷蔵所
歌舞連場跡記念碑
明治6年(1873)上之町に島原女工場として開設され、青柳踊や温習会が上演されていたが、同14年頃には衰微を極め、青柳踊も頓挫した。その後景気の回復により、太夫道中が再興され、歌舞練場が常にその巡行の拠点としての役割を果たしていた。しかし、当初の歌舞練場は狭隣にして、かつ貸座敷組合事務所との共用であったため、昭和2年(1927)に中之町の現在地に移転し、本格的な劇場施設として新築された。それ以来、この新歌舞練場は歌舞会にあたる養柳会が運営にあたり、歌舞音曲の練習発表の場として、毎年温習会が開催された。戦後の同22年以降は島原賃席お茶屋業組合の事務所としても使用されてきたが、平成8年(1996)同組合の解散に伴い歌舞練場を解体し、歌舞練場百二十余年の歴史を閉じることとなった。
島原大門をまっすぐ東に行くと、伊藤軒があります。
こちらの名物が太夫最中。
注文してから最中にあんを詰めてくれるので、最中もサクサクです。