父方の曾祖父母、戒能宇三郎とアサノ(旧姓八木)は、1920年頃にこの街に来て、薪炭商をしていました。そしてアサノの弟基一は警官でしたが、同じ頃千舟町に引っ越して骨董商をしはじめました。
※何度も書きますが、戒能はわかりやすくしているだけで、実際は江戸時代に養子に入っており苗字は変わっています。
この千舟町周辺は、1929年(昭和4年)までは小唐人町(ことうじんまち)と呼ばれていました。もともと士族が住んでいた町で、大正初期に川が埋め立てられて、大規模な繁華街へとなっていったようです。
曾祖父母には会ったことがないので、二人が住んだ町がどんなだったのかなと思いを馳せながら、今回はここでホテルを取って、町をふらふらと歩いてみました。
昔の番地が今と変わらなければ、このあたりに住んでいたと思われます。
(祖父の自伝より)
「店から奥へ長い土間が続いていて、奥には薪や炭俵を納めた倉庫と仕事場があった。仕事場では薪割りや炭挽きが行われていた。二階は店の上にだけあって、四畳と床の間や押入れのある六畳とから成り、店の帳場から土間を隔てたところに階段があった。店には薪や木炭や豆炭、煉炭などが少し置いてあるだけの土間で、帳場は三畳ほど、それに続いて土間に沿い、六畳、四畳半、台所などがあった。帳場には大抵叔父(宇三郎)が座っており、通いの傭人が二人ほどいて注文があると傭人が品物を届けに行き、叔父自身が出かける事はあまりないようであった。伯母(アサノ)は階下の部屋にいる事もあったが、二階の四畳で頼まれ仕事の縫物をしている事が多かった。伯母は裁縫の名手であった。」
1950年代までは、炊事や風呂などは薪を利用していていました。そういう時代だったからこその商売だったのでしょうね。
次の日の朝です。
なんだかかわいいw
千舟町通りを東へ行くと、勝山通り沿いに、
八坂神社があったので見てみました。
鳥居には、大正7年(1918年)とありました。
ちょうど祖父母がいたころなので、もしかしたら参拝にきたかもしれませんね。
勝山通りを北上していくと、市電が走っています。
今はここを曲がっていますが、昔は東側のカーブの道を走っていました。
今はマンションになっていますが、この右側あたりですね。
地図を見るとよくわかります。
ん・・?
なんか見覚えあるような・・と記憶を辿ると、ブラタモリでやっていましたね(笑)
実はそれ目的ではなく、母方の曽祖父の八木隣吉は、子供たちにちゃんとした教育を受けさせたいと、1925年に井内村から松山市築山町に引っ越しました。そこで米屋をしつつ、持田の農事試験場の前に貸家を四軒建てました。それがこの三角コーナーあたりだったのです。家賃何度も踏み倒されて手放したようですが^^;
道後に行く通り道だったので寄ってみました。