続いて、義安寺へ向かいます。
途中にへんろ石がありました。
文政四巳年六月吉日とあります。
1821年ですね、このくらい古いと萌えますw
おろくぶさま
御本尊:釈迦如来
「河野景通の子彦四朗義安が建立した寺なので義安寺と名付けられたという。
『予陽郡俚郷諺集』に、天正13(1585)年、河野家断絶の時、同一族の者、譜代の老臣達も加わって、ここ戒能の谷義安寺に集まり、二君に仕えないことを神水を呑み誓約して自刃したといわれている。この時に別れの水盃をかわしたという「誓いの泉」が今も残っている。また自害した侍たちの精霊が蛍になったという伝説があり、このあたりの蛍は義安寺蛍、源氏蛍と呼ばれる大型のもので、川筋から山手にかけて蛍の乱舞する名所であった。現在はお六部さんとして八のつく日には県外から祈願に訪れる人も多い。」
こちらにも河野家の家紋がありました。
結構きれいにされていますね。
こちらにも家紋。
誓いの泉
もっと大きいものをイメージしていたので、あれれ??
東温デジタル資料館『河野氏滅亡と周辺の武将たち』P130~にこんな記載があります。
〈河野家断絶後、河野氏一族や重臣たちは河野家再興をしようとしたが、秀吉が許さず、秀吉暗殺計画を企てるも露見して全員討ち死にした。
この秀吉暗殺計画の共同謀議に参加した者は、平岡遠江守通倚、河野壱岐守通資、得能備後守通慶、和田左衛門尉通末、戒能藤兵衛通次、大西弾正通秀、大野山城守直昌、土居兵庫頭通達、井門宗左衛門義安、大内伊賀守信恭、垣生加賀守盛周、戒能備前守通盛、日吉左馬、白石若狭、野田将監、白石三郎大夫、別府修理大夫、日吉六郎左衛門、和田山城守、渡部丹後守、堀池右馬、志津川修理など。〉
この参考文献はよくわからず、『戒能家略譜』では、通盛は出家して生涯を過ごし、通次も不慮の死とあり、どちらが真実かはわからない。もしかしたらこちらが本当で、暗殺に計画したということを隠すために書き換えたかもしれません。
どちらにせよ、亡くなった方々のご冥福をお祈りしました。
別の入口
そして道後温泉の時に見つけられなかった鷺石も発見!