祭神:天照皇大神、豊受大神、天穂日命、菅原道真公、息長福玉命など
「文政6年(1823)、松平松山藩11代藩主定通が、松山城山揚木戸に仮営を営み、藩祖である久松定勝の神霊を招請し、息長福玉命と称えて祀ったのがはじまりである。
その後天保11年(1840)、12代藩主定毅(勝善)の代に松山城山長者ケ丘に社殿を造営し、東雲大明神と呼び、一家の祖先神で、天穂日命は菅原氏の祖神といわれている。
明治13年(1880)には、東雲神社と改称し、縣社に列した。昭和20年(1945)年7月の松山空襲で社殿など数多くの建物が焼失した。昭和46年(1971)伊勢神宮の分社松山大神宮を奉遷し、昭和47年(1973)に神明造の社殿が完成、松山大神宮と東雲神社の神霊が合祀奉斎された。」
ん・・?
天皇とゆかりないのに16菊紋??
北側に出てきましたが、これにはわけがありました。
祖父の自伝より
〈叔父(高須賀源吾)の家は、築30年、1919年頃に住み始める。杉谷町(現緑町1丁目)は城山の東北隅、東雲神社下の道を山に沿って左へ曲がって行ったあたりで、家は曲がった突き当りから五軒目くらいの左側にあった。家の前には3m幅の道を隔てて理髪店があった。〉
源吾は、祖父から見て母の弟になります。私にとっては父方&母方共通の曾祖母の弟になります。源吾は則惣田谷の本家を継ぎますが、1914年、松山の第三十二連隊に入隊し、2年目に朝鮮の龍山ヘ。その後帰ってきてこの町に住みました。そして、祖父はここに居候したことがありました。
ということで、どんな町で暮らしていたのか歩いてみたわけです。
おそらくこのあたり?
でもこれだと5軒目と書かずに角にならないのかな?
まーっすぐ行きます。
突き当りを曲がります。
多分・・このへん?
左には城の塀があるので、こじんまりしたところだったようですね。
3mもない気はするけれど・・。
加藤嘉昭公
東雲神社の階段のところから南にいく途中にありました。
そして今度は、愛媛県立図書館へ向かいます。
このあたりは三之丸あたりになります。
午後はたっぷり、資料調査をしました。
伊予史談会から目録を取り寄せ(購入)て、
その中から気になる資料をチェックして事前に申請しました。
図書館で、その資料を見せていただきました。
もちろん古文書なので、その場ですぐ解読は難しく、写真撮影の許可も得て行きました。
読むのはあとにして、一通り写真に納めさせていただき、
それをあとから解読していっています。(まだ終わってない・・)
とりあえず、いったんこれで愛媛旅行も終わりです。
祖父の自伝を元に、かなり調べてから行ったので、意味のある現地調査となりました。
その後・・本家から借りてきた曽祖父の日記と、この資料の解読でかなり時間がかかっています。
日記・過去帳・墓でそれぞれ亡くなった年月日が全然違ったり・・??
数か月ならまだしも、30年くらい違っていたりもするんです。謎・・。
もう少し整理できたら、今度は井内村、則之内村(惣田谷)と再度鷹ノ子へ行きたいですね。このあたりが一番先祖につながる鍵だと実感しました。
ということで、まだしばらく続きます。
次からは、今わかっていることを書いていきたいと思います。