京都散歩道

数年前、某SNSで活動していた「京都散歩道」。このたびブログにて復活しました。京都をいろいろ巡っていますので、少しずつご紹介していけたらと思います。最近は平安京巡りにはまり中。過去のデータを移行したら、写真が一部見れないので、また修正します!まとめサイト等、他サイトへの文章・写真の転載はお断りします。

自分のルーツを辿る16 愛媛旅行⑭ 松山市 松山城Ⅱ 東雲神社、愛媛県立図書館

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祭神:天照皇大神豊受大神天穂日命菅原道真公、息長福玉命など

「文政6年(1823)、松平松山藩11代藩主定通が、松山城山揚木戸に仮営を営み、藩祖である久松定勝の神霊を招請し、息長福玉命と称えて祀ったのがはじまりである。

その後天保11年(1840)、12代藩主定毅(勝善)の代に松山城山長者ケ丘に社殿を造営し、東雲大明神と呼び、一家の祖先神で、天穂日命は菅原氏の祖神といわれている。

明治13年(1880)には、東雲神社と改称し、縣社に列した。昭和20年(1945)年7月の松山空襲で社殿など数多くの建物が焼失した。昭和46年(1971)伊勢神宮の分社松山大神宮を奉遷し、昭和47年(1973)に神明造の社殿が完成、松山大神宮と東雲神社の神霊が合祀奉斎された。」

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ん・・?

天皇とゆかりないのに16菊紋??

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北側に出てきましたが、これにはわけがありました。

 

祖父の自伝より

〈叔父(高須賀源吾)の家は、築30年、1919年頃に住み始める。杉谷町(現緑町1丁目)は城山の東北隅、東雲神社下の道を山に沿って左へ曲がって行ったあたりで、家は曲がった突き当りから五軒目くらいの左側にあった。家の前には3m幅の道を隔てて理髪店があった。〉

 

源吾は、祖父から見て母の弟になります。私にとっては父方&母方共通の曾祖母の弟になります。源吾は則惣田谷の本家を継ぎますが、1914年、松山の第三十二連隊に入隊し、2年目に朝鮮の龍山ヘ。その後帰ってきてこの町に住みました。そして、祖父はここに居候したことがありました。

ということで、どんな町で暮らしていたのか歩いてみたわけです。

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おそらくこのあたり?

でもこれだと5軒目と書かずに角にならないのかな?

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まーっすぐ行きます。

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突き当りを曲がります。

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多分・・このへん?

左には城の塀があるので、こじんまりしたところだったようですね。

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3mもない気はするけれど・・。

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加藤嘉昭公

東雲神社の階段のところから南にいく途中にありました。

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そして今度は、愛媛県立図書館へ向かいます。

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このあたりは三之丸あたりになります。

 

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午後はたっぷり、資料調査をしました。

 

伊予史談会から目録を取り寄せ(購入)て、

その中から気になる資料をチェックして事前に申請しました。

図書館で、その資料を見せていただきました。

もちろん古文書なので、その場ですぐ解読は難しく、写真撮影の許可も得て行きました。

読むのはあとにして、一通り写真に納めさせていただき、

それをあとから解読していっています。(まだ終わってない・・)

 

とりあえず、いったんこれで愛媛旅行も終わりです。

祖父の自伝を元に、かなり調べてから行ったので、意味のある現地調査となりました。

その後・・本家から借りてきた曽祖父の日記と、この資料の解読でかなり時間がかかっています。

日記・過去帳・墓でそれぞれ亡くなった年月日が全然違ったり・・??

数か月ならまだしも、30年くらい違っていたりもするんです。謎・・。

もう少し整理できたら、今度は井内村、則之内村(惣田谷)と再度鷹ノ子へ行きたいですね。このあたりが一番先祖につながる鍵だと実感しました。

 

ということで、まだしばらく続きます。

次からは、今わかっていることを書いていきたいと思います。