金地院から南下していくと、ねじりまんぽがあります。
よく見ると、レンガがらせん状にねじれています。
これは耐久性を上げるために斜めに積み上げられたのです。
トンネルの上にはインクラインが通っています。
これは明治時代~昭和初期まで使用されていた傾斜鉄道跡で、当時はここを荷物を積んだ船が通っていました。
インクラインをずっと上がっていくと、右手に義経大日如来があります。
今回の目的はここでした。
疏水の方は見ていたけど、こっちはスルーしていて知りませんでした。
義経地蔵
「座高約90センチの阿弥陀仏で、高さ屋久1.6mの舟形光背を背負い、鎌倉時代の作と伝わる。義経伝説と大日如来信仰が一体化し、義経大日とも呼ばれる。義経が従者らを斬り捨て、刀を洗った場所は「血洗町」(山科区)の地名として残る。」
「平安末期、奥州に向けて京の粟田口をたった牛若丸は、平家の侍、関原与一の一党と遭遇。水を蹴り上げられ怒って従者もろとも斬り捨てた。民は従者を哀れみ、石仏9体を彫って供養したという。江戸時代の史料『雍州府志』に記され、その地を「蹴上」と呼ぶようになったと伝える。長い時を経て9体の石仏は散逸したが、義経地蔵は地元の東小物座町の住民によって守られてきた。義経地蔵は大正の初めに売られたという。しかし地蔵が町民の夢枕に立ち、「帰りたい」と願った為、町人がもとに戻したという」
何度読んでも・・理解ができない。
義経が平家の侍を斬り捨てたのだから、平家を祀るのはわかる。
なぜ義経を地蔵として祀るの??
義経が些細なことで殺してしまったことを反省して、
地蔵を自ら作ったのなら義経地蔵と名付けるのも理解もできるんだけどな。
あと、義経がそんな水かけられたくらいで殺すとか、乱暴狼藉ものだったと思いたくないのもある・・。
本来はもっと何か深い意味があったんじゃないかなぁ。
せっかくだったので、琵琶湖疏水の責任者だった田邊朔郎像も見てきました。
あら、なかなかのイケメンですね(笑)